「喜多流」の版間の差分

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[[江戸時代]]初期に興った新興流派で、[[金剛流]]の流れを汲む。流派の祖は[[徳川秀忠]]に庇護を得ていた[[喜多七太夫]]。七太夫は金剛太夫(金剛流の家元)弥一の養子となり金剛太夫を継承したが、弥一の実子・右京勝吉の成人後に太夫の地位を譲った。その後、[[徳川秀忠]]、[[徳川家光]]の後援を受けて[[元和 (日本)|元和]]年間に喜多流の創設を認められ、喜多流は四座の次に位置する立場となった。現在、五流の内では最も規模の小さい流派である。しかしながら、[[幕末]]の[[石高]]は200石で金剛流よりも100石多かった。幕末の[[宗家]]は濱町袋町に在住していた。
 
[[武士]]気質で素朴かつ豪放な芸風で、豊臣時代から初世と交流のある[[福岡藩]][[黒田氏|黒田家]]など、[[大名]]家の([[津軽藩]]、[[仙台藩]]、[[水戸藩]]、[[彦根藩]]([[井伊氏|井伊家]])、[[紀州藩]]、[[広島藩]]、[[松山藩]]{{要曖昧さ回避|date=2017年2月8日 (水) 13:21 (UTC)}}、[[熊本藩]]([[細川氏|細川家]])等)にも採用された。徳川幕府瓦解後、一時は廃絶の危機に瀕するが、[[喜多六平太 (14世)|十四世喜多六平太]]という名人が登場し、流派は生きながらえた。また[[浅野家]]、[[井伊家]]、[[藤堂家]]、[[土佐山内氏|山内家]]等の旧藩主の協力や、喜多流に属する地方の能楽師たちも流派の存続に尽力した。
 
大正・昭和期の名人として[[喜多実]]、[[後藤得三]]ついで[[友枝喜久夫]]・[[友枝昭世]]親子、[[粟谷菊生]]、[[塩津哲生]]らが知られている。