「糸井重里」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
整理
Sonchou (会話 | 投稿記録)
外部リンク切れを修復。
37行目:
== 来歴 ==
=== 生い立ち ===
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
[[群馬県]][[前橋市]]出身。生誕後に両親が[[離婚]]し[[司法書士]]であった父親の元に引き取られ祖母に育てられる。その後、実母と1981年に再会した。
 
48 ⟶ 49行目:
 
=== コピーライター ===
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
知人に薦められて「[[宣伝会議]]」の[[コピーライター養成講座]]に通い、[[1968年]]にデザイン事務所「サムシング」に就職。[[1969年]]に[[栗田工業]]主宰のTVCFアイディア賞で銀賞を、[[1971年]]には金賞を受賞するが、[[1973年]]に「サムシング」が倒産。そのまま[[フリーランス]]となる。同年、[[宣伝会議]]賞受賞。
 
[[1975年]]、[[トーメンアパレル]]から発売されていたジーンズブランド「WELDGIN」の「このジャンパーの良さがわからないなんて、とうさん、あなたは不幸な人だ!」のコピーで、東京コピーライターズクラブ新人賞受賞。同年、イラストレーター[[湯村輝彦]]に出会い、彼の主宰のORIGINAL FLAMINGO STUDIOの創設に参加。
 
[[1976年]]、湯村と共に制作した、「WELDGIN」の広告で、東京アートディレクターズクラブ賞(ADC賞)を受賞。同年、漫画雑誌『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』の編集者の[[南伸坊]]からの依頼で、糸井が原作、湯村が作画の「[[ペンギンごはん]]」シリーズの発表を始める<ref group="注釈">かわいいペンギンが登場するが、ストーリーは陰惨な内容という作品であった。</ref>。また、『ガロ』の編集部にいた南伸坊、[[渡辺和博]]らを介して、「[[赤瀬川原平]]人脈」との親交が始まる。同年7月、糸井原作、湯村作画で「さよならペンギン」を刊行。
 
[[1978年]]、[[矢沢永吉]]の自伝本『成りあがり』の構成と編集を手掛ける。同書はベストセラーを記録した。
 
=== 糸井重里事務所 ===
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
[[1979年]]、[[沢田研二]]の「TOKIO」の作詞を担当。また、[[スナックバー (飲食店)|スナック]]等でちり紙やマッチなどで行う、気の効いた「芸」をまとめた著作『[[スナック芸]]大全』を刊行。自身の名義での処女出版となると共に、この年「東京糸井重里事務所」(現:「株式会社ほぼ日」)を設立。この事務所に、当時美大生でスタッフの友人であった[[みうらじゅん]]が盛んに出入りするようになり、糸井がみうらを『ガロ』編集部に紹介。みうらの漫画家デビューのきっかけを作った。
 
[[1980年]]9月から、サブカルチャー雑誌『[[ビックリハウス]]』において、読書投稿ページ「[[ヘンタイよいこ新聞]]」を担当。その「意味のない面白さ」で読者を熱狂させ、若者たちの教祖的存在となる。また、『ビックリハウス』に関係していた、新進気鋭のミュージシャン、アーティストとの交際も始まる。
 
[[1982年]]5月、新聞終刊記念イベントとして「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」を糸井と[[鈴木慶一]]らで企画<ref group="注釈">「ヘンタイよいこバンド」([[忌野清志郎]]、[[仲井戸麗市|チャボ]]、[[矢野顕子]]、[[坂本龍一]]、[[鈴木さえ子]]、[[どんべ]]で構成)をはじめ、[[井上陽水]]、[[高橋幸宏]]、[[篠原勝之]]、[[立花ハジメ]]、[[南伸坊]]、[[合田佐和子]]、[[栗本慎一郎]]、[[仲畑貴志]]、[[ムーンライダーズ]]、[[ブッチャーブラザーズ]]、[[コント赤信号]]、[[浅葉克己]]、[[東京乾電池]]、[[三遊亭円丈]]等が出演。司会は[[和田又八]]だった。</ref>。
 
また、1982年4月から[[1985年]]3月まで、NHKの若者向け番組「[[YOU (テレビ番組)|YOU]]」の司会も担当。
67 ⟶ 70行目:
その後、[[西武百貨店]]の「不思議、大好き。」(1982)「[[おいしい生活 (キャッチコピー)|おいしい生活]]」(1983) などの[[キャッチコピー]]でコピーライターとしても脚光を浴びる。[[仲畑貴志]]や[[川崎徹]]らと共に注目を集め、「コピーライター・ブーム」を呼んだ。
 
[[1983年]]からは『[[週刊文春]]』において「家元」と名乗り、読者投稿型のコピー講評「[[糸井重里の萬流コピー塾]]」の連載を開始<ref group="注釈">投稿が掲載されてポイントをためれば「名取」になり、自分の名前の一部に「井」「重」「里」の文字をいれた「萬名」を名乗ることが許された。さらにポイントがたまると「師範」を許された。この「現代によみがえった、江戸時代の[[俳諧]]遊び」のような楽しさに投稿者たちは熱狂し、[[川上宗薫]]、[[山藤章二]]、[[すがやみつる]]なども一投稿者として参加した。また、刊行元である[[ネスコ (出版社)|ネスコ]]編集者の[[名女川勝彦]](現・文藝春秋社取締役)が「番頭」役として参加していた。1988年に連載は終了。萬流コピー塾の師範出身者には、「萬名・小林井秀雄」(本名[[小林秀雄 (コピーライター)|小林秀雄]]。のち、プロのコピーライターとなり、代表作は「私、脱いでもすごいんです」)、「萬名・重亀海昌次」(本名[[亀海昌次]]。糸井より年上のアートディレクター)、「萬名・戸田里昭吾」(本名[[戸田昭吾]]。作詞家として[[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスター]]の主題歌などを作詞。広告コピーやシナリオ執筆)、「萬名・吉田浩之里」(お笑いプロデューサーになり、[[ヒロ吉田]])、「萬名・原囲一也」(本名[[原口一也]]、[[さくまあきら]]の弟子のゲーム・ライターとなった)等がいる。</ref>。
 
[[1984年]]、[[有楽町マリオン]]の完成記念イベントとして「夕刊イトイ」を企画<ref group="注釈">糸井が編集局長で、各号の編集長を、[[久住昌之]]、[[みうらじゅん]]、[[島地勝彦]]、[[渡辺和博]]、[[天野祐吉]]、[[南伸坊]]、[[秋山道男]]、[[蛭子能収]]、[[川上宗薫]]、[[石原真理子]]、[[泉麻人]]、[[鈴木慶一]]、[[巻上公一]]、小林井秀雄に依頼し、自由な誌面を作ってもらった。</ref>。
 
[[1989年]]、ゲーム製作のための会社「APE(エイプ)」を設立。制作した『[[MOTHERシリーズ]]』はカルト的なファンを生んだ。
80 ⟶ 83行目:
 
== 人物 ==
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
名前の重里(しげさと)は[[スタンダール]]の小説「[[赤と黒]]」の主人公ジュリアン・ソレルにちなんで名付けられた(ジュリアン→ ジュリ→ 重里)。基本的に一人称は「ぼく」である。
 
[[モノポリー]]が趣味で、日本モノポリー協会会長でもある。[[2011年]]に雑誌の特集で「自身が書いた本の帯から(自薦で)一番を決める」という企画が組まれた際、糸井はかつてモノポリー専門書につけたコピー「'''天使と悪魔が徹夜する!'''」をナンバーワンに挙げている。[[ブラックバス|バス]][[釣り]]も趣味で、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[バラエティ番組]]『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]』で年に1度開催される「芸能人釣り選手権」に糸井は毎年参加。開会式で[[田中直樹 (お笑い芸人)|田中直樹]]([[ココリコ]])から「'''C級コピーライター'''」と罵倒されるのが恒例となっている。
 
バス釣りについては、[[1995年]]の『[[笑っていいとも]]』で[[木村拓哉]]が「趣味でやっている」と発言したことでブームになったが、糸井もそれで興味を持ち、一時は木村と一緒にバス釣りに行っていることを吹聴し、「バス釣り」ブームを仕掛けたことで批判を浴びた。[[1996年]][[12月]]に刊行された糸井の著書『誤釣生活』は、雑誌『SINRA』に連載されたが、連載時の第1回の題名は「キムラくんに誘われて釣りに行くまで」となっていたが、単行本化時は木村サイドに拒否されて、その題名を使えなかったという<ref>『噂の真相』1997年2月号{{要ページ番号|date=2017年2月}}</ref>。
 
また、プロ野球・[[読売ジャイアンツ|巨人]]のファンとしても有名で、『[[ニュースステーション]]』ではファン代表としてキャッチコピーをつけたりしたが、[[1991年]]にはシーズン開幕前の同番組で「今年優勝を逃したら[[六本木]]を[[褌]]一丁でランニングする」と宣言、そのシーズン巨人は優勝を逃したためにランニングする羽目になった。これは11月の深夜に行われ、「こんな愚かな真似はもう二度と繰り返さないでほしい」とコメントした。同番組ではそれ以前にも[[1989年]]に[[久米宏]]が同様の賭け(巨人が優勝したら坊主になる)を行い丸坊主になっているが、これ以降そうした賭けは行われていない。
95 ⟶ 99行目:
 
== ほぼ日刊イトイ新聞 ==
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
糸井が代表を務める「株式会社ほぼ日」(「糸井重里事務所」から2016年12月1日付で会社名を改称)が運営する[[ウェブサイト]]「[[ほぼ日刊イトイ新聞]]」は、一日の総ページビューが約140万の有名サイトで、1998年6月6日に開設された。略称は「ほぼ日」。
 
サイトの立ち上げには、糸井の友人で元任天堂社長である[[岩田聡]]が大きく携わっている<ref>{{Cite web|date=2007-09-14|url=http://www.1101.com/iwata/2007-09-14.html|title=ほぼ日刊イトイ新聞 任天堂、岩田聡社長と糸井重里が話す。|publisher=株式会社東京糸井重里事務所|language=日本語|accessdate=2011-09-25}}</ref>。
 
著名人やクリエイターなどの連載、オリジナルグッズの販売などが主なコンテンツで、執筆陣は[[清水ミチコ]]、[[鳥越俊太郎]]、[[渡辺真理]]、[[春風亭昇太]]、[[天海祐希]]など多彩。他にも、[[タモリ]]、[[萩本欽一]]、[[矢沢永吉]]、[[松本人志]]、[[イチロー]]、[[谷川俊太郎]]、[[明石家さんま]]など、多数の有名人との対談も掲載されている。サイト内での糸井の愛称は「'''ダーリン'''」。
109 ⟶ 114行目:
 
== 評価 ==
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
1995年に[[ナンシー関]]が、テレビタレントとしての糸井について「誰かが『もうおもしろくねぇんだよ』とでも突っ込んでくれたら、どんなに気が楽になるだろう。糸井重里がテレビで尊重されている大きな理由のひとつに『80年代を捨てきれない大人になったヘンタイよいこ』というのがある気がする。『イトイ的なカンジ』にひかれた子供が、現在30代半ばになり、『あの、イトイさんと』の思いを遂げている結果が、『糸井重里よくテレビに出てる』ではないのか。」と批判。
 
1998年に「ほぼ日」において糸井は「たしかにぼくは『視聴者のちょっと知ってる人』という役割でしかテレビに貢献してない。こういうことを目ざとく発見するのが、ナンシー関という人の恐ろしいところである。自分で、『オレ、面白くなかったんだ!』とかなり痛いところに気づいてしまったのも、彼女のせいというかお陰なのである。」と発言している<ref>[http://www.1101.com/itoi/1998-09-04.html ほぼ日刊イトイ新聞-糸井重里の脱線WEB革命 http://www.1101.com/itoi/1998-09-04.html]</ref>。
 
[[筑紫哲也]]による対談集『[[若者たちの神々]](Part1)』(1984年)において、糸井は既に「自分は『場所を作る存在』で、その場所でみんなで遊んでもらえばいい」と発言している。
137 ⟶ 143行目:
*[[マジカル頭脳パワー!!]](「第1回放送」回答者の1人、日本テレビ)
*糸井重里の電視遊戯大展覧会(フジテレビ 1987年11月6日 00:35-03:05(単発放送))
*[[連続テレビ小説]] [[あまちゃん]] 第16週(『夜のベストヒットテン』司会者役<ref>{{refnest|group="注釈"|糸井は[[ザ・ベストテン]]の司会・[[久米宏]]をイメージさせる格好に扮し、共演した[[清水ミチコ]]も同じく[[黒柳徹子]]を思い起こさせる格好で登場している([<ref>{{Cite news |url=http://news.mynavi.jp/news/2013/07/13/007/index.html |title=[あまちゃん]「ザ・ベストテン」を彷彿とさせる歌謡番組が登場! 司会は糸井重里&清水ミチコ]{{リンク切れ |datenewspaper=2017年2月}} -マイナビニュース<原出典:「 |agency=まんたんWEB」> |publisher=マイナビ |date=2013年7月-07-13日)。 |archiveurl=https://archive.is/20131007232501/http://news.mynavi.jp/news/2013/07/13/007/index.html |archivedate=2013-10-07}}</ref>。}}<ref>[http://www.1101.com/news/2013-07-19.html 司会者役で糸井重里が「あまちゃん」に出演!] - ほぼ日刊イトイ新聞 2013年7月17日付</ref>、NHK、2013年)
 
=== ラジオ ===
159 ⟶ 165行目:
 
== 代表的なキャッチコピー ==
* 君に、クラクラ。([[カネボウ化粧品]])<ref group="注釈">この当時カネボウ化粧品のキャンペーンソングとなった、男性デュオ・SKYの「君にクラクラ」の曲名にも起用された。</ref>
* くうねるあそぶ。([[日産自動車]]・[[日産・セフィーロ|セフィーロ]])※[[井上陽水]]がCMに出演。
* 生ビールがあるじゃないか、あるじゃないか。([[麒麟麦酒|キリン・ラガービール]])
220 ⟶ 226行目:
 
=== その他 ===
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
* [[1989年]]に[[藤田元司]]が巨人監督に復帰した際、巨人の野球を「噛めば噛むほど味が出る『スルメ野球』」と評した。
* [[ファーストリテイリング|ユニクロ]]野菜「SKIP」のプロデュース。
414 ⟶ 421行目:
 
== 賞歴 ==
{{出典の明記|date=2017年2月|section=1}}
*[[1975年]] TCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞
*[[1976年]] 東京アートディレクターズクラブ賞(ADC賞)
423 ⟶ 431行目:
*[[2000年]] 第6回AMD Award 功労賞
*[[2001年]] 第3回eAT KANAZAWA 名人賞
*[[2007年]] 谷川俊太郎賞 受賞 「小さいことばを歌う場所」<ref group="注釈">実在しない賞だが(谷川俊太郎は自分の名が使われる賞の創設を固辞している)、この本を読んだ谷川が「谷川俊太郎賞をあげたい」とメッセージを送ったことから贈呈が決まった。</ref>
*[[2009年]] 第1回[[伊丹十三賞]]
*[[2012年]] 第15回[[みうらじゅん#みうらじゅん賞|みうらじゅん賞]]
429 ⟶ 437行目:
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==