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創刊時の田中美知太郎『時代と私』から始まり、[[宮本常一]]や[[井上光貞]]・[[松田毅一]]などの著名な学者の回顧録を連載した。また1980年代には、作家[[辺見じゅん]]が[[今西錦司]]、[[谷川徹三]]、[[土屋文明]]、[[永井龍男]]といった当時健在だった[[明治]]生まれの作家・学者らへのインタビュー対談を掲載していた。のちに『初めて語ること―賢師歴談』として刊行された。
 
[[1980年]]1月号より開始した巻頭[[コラム]]「紳士と淑女」(筆者は[[徳岡孝夫]]、最終号で明かされた)。また巻末コラムの[[山本夏彦]]「笑わぬでもなし」([[2002年]]に没する少し前までの約350回)も著名であった。[[1980年]]には1960年代初頭まで[[左派]]であった[[清水幾太郎]]が本誌上にて[[核武装]]論を展開し、[[転向]]として話題となるなど、保守論壇。清水の選択―日本よ国家たれ」が掲載された1980年7刊誌として号は、当時地位実売数は2万数千部だったが、この号は1万部も多い、3万2000部確立し売り切り{{Sfn|竹内|2012|p=304}}、編集部には記録破りの賛否両論の投書が届けられ、翌月号には投書特集が組まれ{{Sfn|竹内|2012|p=305}}。なお清水は回顧録『わが人生の断片』を連載した。清水が『諸君!』に登場するようになったのは、文藝春秋で『諸君』の創刊が決まったときに遡る。編集部員への配属が予定されていた東眞史は、「清水研究室」を訪問し、編集会議で清水を執筆者に加えることを提案したが、池島信平と田中健五編集長は、「バーカ。清水幾太郎が文春に書くわけないだろうが!」と言ったが、それは、清水がもともとは岩波文化人だったことによる{{Sfn|竹内|2012|p=293}}。しかし、東の熱意と新しい執筆場所を探していた清水の意向が合致し、清水は創刊号でインタビュー形式の「戦後史をどう見るか」で登場する{{Sfn|竹内|2012|p=294}}
 
初代編集長の田中健五(のち社長・会長)の意向が強く反映した内容を踏襲してきた。『[[正論 (雑誌)|正論]]』・『[[Voice (雑誌)|Voice]]』・『[[WiLL (雑誌)|WiLL]]』などと共に保守系論壇誌であり、[[岩波書店]]の『[[世界 (雑誌)|世界]]』、[[朝日新聞社]]の『[[論座]]』(2008年休刊)などの左派系論壇誌と対をなしていた。そのため戦前戦中日本([[大日本帝国]])を直視する立場をとっており[[中華人民共和国|中国]]や[[大韓民国|韓国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]といった周辺諸国の[[ナショナリズム]]を警戒する論文を掲載していた。
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=竹内|first=洋|authorlink=竹内洋|title=革新幻想の戦後史|date=2011|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=9784120043000|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=竹内|first=洋|authorlink=竹内洋|title=メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却|date=2012|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120044052|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==