「秋月悌次郎」の版間の差分

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|死没地=
|職業=[[会津藩]]公用方<br/>[[左院]]少議生<br/>[[文部省]]御用掛<br/>[[東京大学 (1877-1886)|東京大学予備門]]教諭<br/>[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学]]教諭<br/>[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]教授
|出身校=[[日新館]]<br/>[[昌平坂学問所]]<ref name=hikae/>
|配偶者=
|子供=[[秋月胤継|胤継]]
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== 略歴 ==
[[下総国]]発祥[[千葉氏]]の末裔である[[丸山胤道]]の次男として[[若松城]]下に生まれる。丸山家の家督は長男の[[丸山胤昌|胤昌]]が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。[[藩校]]・[[日新館]]に学び、[[南摩綱紀]]とともに秀才として知られた。[[天保]]13年([[1842年]])に[[江戸]]に遊学し、私塾や[[昌平坂学問所]]<ref name=hikae/>などで学び、また[[薩摩国|薩摩]]・[[長門国|長州]]など諸国を渡る。
 
藩主・[[松平容保]]の側近として仕え、[[文久]]2年([[1862年]])に容保が幕府から[[京都守護職]]に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。薩摩藩士・[[高崎正風]]らと計画を練り、会津藩と[[薩摩藩]]が結んだ宮中クーデターである[[八月十八日の政変]]を起こし、藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。後に佐幕派の反対を受け、[[慶応]]元年([[1865年]])には左遷されて[[蝦夷地]]代官となる。