「荘公 (燕)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
21行目:
|注釈 =
}}
'''荘公'''(そうこう、生年不詳 - [[紀元前658年]])は、[[燕 (春秋)|燕]]の[[君主]]。[[桓侯 (燕)|桓侯]]の子で、その後を受けて燕国の君主となった。[[紀元前675年]](荘公16年)、[[宋 (春秋)|宋]]や[[衛]]とともに[[周]]の[[恵王 (周)|恵王]]を攻撃し、恵王は温に逃亡した。恵王の叔父の[[姫タイ|王子頽]]が周王に立てられた。[[紀元前664年]](荘公27年)、山戎が燕に侵入すると、荘公は[[斉 (春秋)|斉]]に救援を求めた。斉の[[桓公 (斉)|桓公]]は援軍を発して燕を救い、山戎を撃破して、孤竹まで追撃した。斉の桓公が帰国するにあたって、荘公は桓公を見送りに出て、国境を越えてしまった。桓公はそこで荘公の入り込んだ50里の地を燕に割譲した。紀元前658年(荘公33年)、荘公は死去した。
 
== 参考文献 ==