「パルテノン神殿 (ナッシュビル)」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[File:Athena Parthenos LeQuire.jpg|thumb|right|upright|再建された[[アテーナー|アテナ・パルテノス]]の像]]
原住民以外の白人による入植が1790年代初めに始まったテネシーは、ノースカロライナの西部地域として急速に発展し、1796年、南部において第16番目の州となった。その後、1840年代に古代ギリシヤ哲学やラテン語教育を取り入れる動きが高まり、1850年代までにはナッシュビルが[[通称|俗称]]として『南部のアテネ』と呼ばれるようになっていた。その影響下、州の100周年を記念するにあたり1897年(一年遅れの催事)の万博開催の際の 中心的建築物とする目的でパルテノン神殿を建造した。世界中多くの人々がこれらの美しさを見に訪れている。
1897年の万博の中心的建造物であったパルテノン神殿により、ナッシュビルの[[愛称]]は「南部のアテネ」となった<ref>Creighton, Wilbur F., ‘’The Parthenon In Nashville: Athens of the South, From a personal viewpoint’’, JM Press, Brentwood TN, 1989, revised edition 1991</ref>。万博のほとんどの建築物は古代建造物を基に建造されていたが、このパルテノンは唯一正確な復元建造物であり、またナイト・オブ・ピュティオスの建物は万博の後にテネシー州[[フランクリン (テネシー州)|フランクリン]]に買収され郊外へ移されたが、このパルテノン神殿は唯一ナッシュビル市により保存されている。
万博の責任者であったユージン・キャストナー・ルイス少佐はテネシー州制100周年の中心的建造物としてパルテノン神殿の復元を提案した。ルイスは他に[[ナッシュビル・チャタヌーガ・セントルイス鉄道]]の土木主任技師を務めていた。元々[[漆喰]]、[[木]]、[[レンガ]]で作られたパルテノンのレプリカは保存に適さなかったが、取り壊し費用の問題の他に住民や観光客に人気だったため万博後もそのまま残された。1895年、[[ジョージ・ジュリアン・ゾルネイ]]がこの建造物の装飾のモデル製作に雇われた<ref>Creighton, Wilbur F., ‘’The Parthenon In Nashville: From a personal viewpoint’’, 1968, self published p.21-22</ref>。以降20年間、気候により損傷し、1920年に同じ基盤で[[コンクリート]]により再建が開始され、1925年に外装が完成し、1931年に内装が完成した<ref>{{cite web|url=http://www.nashville.gov/Parthenon/Historical/History-Timeline.asp |title=Timeline at the Parthenon |publisher=Metro Parks and Recreation Department, Metropolitan Government of Nashville and Davidson County, Tennessee |accessdate=2010-12-13}}</ref>。
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美術館には[[ジェームズ・M・コウワン]]により寄付された19世紀から20世紀のアメリカの芸術家の63点の常設展示物がある。また企画展示のためのスペースもある。別のギャラリー・スペースでは様々な企画展示やイベントが行われる。
 
夏期には地元の劇団が背景にこの建物を使用しパルテノンの階段で通常無料で[[エウリピデス]]の『[[メディア (ギリシア悲劇)|メディア]]』、[[ソポクレス]]の『[[アンティゴネー]]』などの[[古代ギリシアの演劇]]を上演する。他に室内のアテナ・パ ルテノスの像の下で[[メアリー・ジマーマン]]の『[[メタモルフォーゼス]]』が上演されたこともある。
 
2002年、パルテノン神殿は大規模なクリーニングおよび修復が必要となり、全面的改装を行なった。様々な色のライトで柱をライトアップできるようにし、イベントによって多様な様相を見せるようになった。