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'''ウースチー・ナド・ラベム''' ([[チェコ語]]:'''Ústí nad Labem'''、[[ドイツ語]]:Aussig an der Elbe)は、[[チェコ]]・[[ウースチー州]]の都市。ドイツ語の読みはアウシヒ・アン・デア・エルベ。画家[[アントン・ラファエル・メングス]]はこの町の出身である。
 
== 歴史 ==
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19世紀の間に町は非常に産業化された。採掘と化学産業、河川輸送が重要な資産だった。現在も化学製品、冶金学製品、機械部品産業、織物と食品産業が盛んである。
 
ウースチーは初期[[ナチズム]]の中心であった。1903年11月15日、オーストリアにおけるドイツ労働者党(''Deutsche Arbeiterpartei in Österreich'')が結成された。これは[[ズデーテン・ドイツ人党]]とオーストリア国民社会主義運動の元となった。これらの活動の文書はほとんどウースチーで印刷された。
 
1945年4月27日から19日にかけ、市は連合国軍の空襲に遭い、500人の死者が出た。戦後すぐの7月31日、ドイツ人市民に対する[[ウースチーの虐殺]]が起きた。1945年と1946年にかけ、この地域に住んでいたドイツ人のほとんどにあたる53,000人が追放された([[ドイツ人追放]])。追放されたドイツ人に代わり[[ソビエト連邦]]、[[スロバキア]]、[[ルーマニア]]から多くの移民がやってきたが、その多くは[[ロマ]]と[[シンティ・ロマ人]]であった。[[冷戦]]時代、一帯の文化的・教育的レベルは地に落ちた。1970年代から1980年代にかけ、ウースチーに多くのパネラーク建築がつくられた。1989年の[[ビロード革命]]で[[チェコスロバキア]][[共産主義]]政権が崩壊すると、市の中核産業は経済危機にさいなまれた。
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ウースチーは、1990年代後半に全長150メートルの壁をマティツィニー街に建てたことで悪名高かった。家族で住む家と、他人をごまかして住む人間の借家とを離すためであった。後者が主にロマ人の家であったことから、国際的な人種差別スキャンダルに発展した。市長ラディスラヴ・フルシュカは地元の大家に1998年9月下旬に壁が完成すると表明した。外国のマスコミが調査のためウースチーへ到着し、彼らは市会議員から『壁は人種を隔てる意味はないが、普通の市民を通りの反対側から聞こえる騒音やつまらないものから安全にしておくためだ。』と説明した<ref name="romove">[http://romove.radio.cz/en/article/18199 Usti nad Labem / Maticni Street] romove.radio.cz, 26-02-2000</ref>。
 
9月、市は4メートルの防音壁を1.8メートルのセラミック・ブロック製壁に変更すると発表。子供の遊び場が借家群の正面に建設された。これらの転換にもかかわらず、ロマ人政党と首相代理ヴラジミール・シュピドラは建設に声高に反対した<ref name = "bbc">[http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/286704.stm Hiding Gypsies behind a wall], [[英国放送協会|BBC]], February 26, 1999</ref> 。壁は[[アメリカ合衆国]]下院議員クリス・スミスに批判され、[[欧州評議会]]からの代表団は人種差別主義者として壁を揶揄し猛烈な解釈をおこなった。<ref name="romove"></ref>
 
新たな計画による壁建設計画が始まり、1999年10月5日に工事が始まり、13日に完成された。体を張って壁建設に反対するロマ人が50人集まり、人間の壁を作った。国内と海外から圧力を受け、すぐに市は壁の撤去を決定。完成から6週間後に壁は壊された。
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*[http://www.usti-nl.cz/showdoc.do?docid=32 Municipal website]
 
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[[Category:チェコの都市]]
[[Category:ウースチー州]]