「エリック・ホッファー」の版間の差分

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ある日、勤務先の[[レストラン]]で[[カリフォルニア大学バークレー校]]の柑橘類研究所所長のスティルトン教授と出会い、給仕の合間に彼が頭を悩ませていた[[ドイツ語]]で書かれた植物学の文献を翻訳した。彼はホッファーが植物学にもドイツ語にも精通していることを知り、研究員として勤務することを持ちかけた。しばらく研究員として働いたホッファーは、当時カリフォルニア州で流行っていた[[レモン]]の白化現象の原因を突き止めた功績が認められ、正式な研究員のポストが与えられるが、それを断り気ままな放浪生活へと舞い戻る。
 
[[哲学者]]、著述家としての転機は[[1936年]]、ホッファーが34歳の時であった。[[アドルフ・ヒトラー]]の台頭、そしてその冬、[[砂金]]掘りの仕事でひと冬を雪山で過ごすことになり、その暇つぶしとして道中の古本屋で購入した[[モンテーニュ]]の『[[エセー]]』との出会いによって思索、とりわけ「書く」という行為を意識し始めたという。エセーはその冬で三度読み返し、最後には大部分を暗記してしまったという。
 
[[1941年]]より、[[サンフランシスコ]]で[[沖仲仕]]として働いたことから、「沖仲仕の哲学者」とも呼ばれる。[[1964年]]より、カリフォルニア大学バークレー校の[[政治学]]研究教授になったが、65歳になるまで沖仲仕の仕事はやめなかった。ホッファーによると、沖仲仕ほど自由と運動と閑暇と収入が適度に調和した仕事はなかったという。また、沖仲仕を含む港湾労働者の[[労働組合]]幹部を長く続けていた。バークレーでは週に一度のオフィスアワーを持ち、[[1972年]]まで続けた。[[1967年]]にCBCで放送された対談番組は全米各地で大きな反響を呼んだ。[[再放送]]も人気だったことから、以来年に一度出演した。[[1970年代]]、ベトナム兵役拒否や[[ヒッピー]]、[[マリファナ]]と[[学生運動]]の時代に、ある種の知的カリスマとして高い知名度をもっていたが、ホッファー自身は彼らを甘やかされた子供と捉えていた(ホッファーはヒッピーと対照的な立場とされている[[スクウェア]]を支持していた。ただし、ホッファーのいう「スクウェア」とは、(日本における[[ブルーカラー]]のような)勤労青年を指していた)。ホッファーは[[ベトナム戦争]]を肯定的に評価していた。