「斯波氏」の版間の差分

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尊氏の死後、斯波氏は2代将軍[[足利義詮|義詮]]の[[執事]]に任用されるようになった。しかし、執事とは宗家の家政機関であり、[[高師直]]に至るまでの代々の執事は足利宗家譜代の家来[[高氏]]の務めるところであった。つまり執事に就くことは格下・従者の扱いを受けるということであり、斯波氏は宗家とほぼ同格という意識を持つため、執事への就任を打診された高経や三男[[斯波氏頼|氏頼]]はこれを渋っていた。結局、わずか13歳の四男[[斯波義将|義将]]を執事に就け、高経がこれを後見する形がとられた。しかしこの頃から、執事職は単に足利宗家の家政機関として家領や従者を管理する立場を超え、幕政に参与する有力守護大名の座長的性格を持つ管領職へと形を変え、斯波氏は幕府の主導権を握ることとなる。また、執事・管領の地位上昇の結果、義将は四男でありながら戦死した長男[[斯波家長|家長]]に代わって嫡男となり、次男[[斯波氏経|氏経]]や三男氏頼は隠遁に追い込まれることになった(氏経の場合は父が幕府に背いた時に幕府方に留まったことや[[九州探題]]としての失敗も失脚の原因ではあったが)<ref name=kinoshita/>。
 
高経は、義将を執事(管領)に就けかた他、五男の[[斯波義種|義種]]を[[侍所]]頭人、孫の[[斯波義高|義高]](次男・氏経の子)を[[引付衆|引付]]頭人に就けて一門で幕府要職を固める体制を構築する。足利一門最高の家格を誇る長老にして、[[元弘]]の挙兵以来の元勲である高経の影響力は大きく、西国の有力大名であった[[大内氏]]や[[山名氏]]を幕府へ帰順させることにも成功し、高経体制は室町幕府の安定化に一定の成果をあげた。しかし幕府の権威を高める政策が早急すぎたことなや、次男で[[九州探題]]の[[斯波氏経|氏経]]が九州攻略に失敗したこともあって諸侯の高経への反感が高り、高経の協力者であった[[佐々木道誉]]らの策謀によって失脚した([[貞治の変]])。
 
===三管領の筆頭、足利一門の高家===