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[[1982年]][[12月8日]]15時過ぎ、明かりが落ちた自宅の居間で倒れているのを外出から戻って来た妻の和子と付き人波連太郎が発見、救急車で病院へ運ばれたが既に呼吸・[[心停止]]の意識不明状態で、[[大動脈解離|解離性大動脈瘤破裂]]により意識は戻らないまま急逝した。{{没年齢|1930|6|28|1982|12|8}}。
 
[[肥満|肥満体]]であったことと、多忙のため多い日でも3〜5時間しか睡眠を取れず、[[タバコ]]は一日最低でも3箱を吸い、さらに[[コーヒー]]も数杯好んで飲んでいた。 亡くなる2ヵ月前にあっだし[[名古屋市|名古屋]]の[[中日劇場]]での[[座長公演]]の際には朝食は食べず昼食は[[味噌煮込みうどん]]、夕食はホテルで300グラムの[[ビーフステーキ]]という生活を、1ヵ月の公演中毎日続けたという。このような偏った食生活も早逝の一因になったと思われる。ただし、三波のマネージャーは「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのもひとつの生き方」と述べている。その一方酒は[[下戸]]で一滴も飲まなかった。

多くのレギュラー番組を抱え、名司会者として順風満帆の芸能生活を送っていた矢先の死だった。突然の[[訃報]]を受け駆けつけた盟友の伊東は対面で開口「こりゃあウソだろう。寝てるんだろう!」と発し記者会見の場で、「(三波の亡骸を触ったときに)体がまだ温かいんですよ。温かいものだから死んだ気がしなくて……。寄らば大樹の陰で、私などは彼のおかげでここまで来れた。(てんぷくトリオは)もう一人になってしまったんだなぁ……」と言いながら号泣した。[[棺]]に納められる際の三波は、妻の和子、長男:伸一([[三波伸介 (2代目)|2代目三波伸介]])と伊東によって黒の紋付き袴が着せられた。
 
テレビとそのお茶の間で人気者の訃報に[[マスコミ]]の取材活動は過熱したが関係者が取り成し遺族への接触を遮断、和子は一度だけ全てのマスコミ記者インタビューに応じて立ち「パパ(三波)はよく死んだふりをして家族をからかうことがあったため、このときもしばらく『死んだふりをしているのだろう』と思っていたところ、様子がおかしいのに気付いて救急車を呼んだ(大意)。」と答えその様子が[[ワイドショー]]番組やニュースで繰り返し放送された。後年(時期不明)「すぐ救急車を呼んでいたら三波を死なせずに済んだかもしれない」と悔やんでいたという<ref>ただし、息子の三波伸介(2代目)はこの説を否定している。以下「喜劇役者二代目三波伸介オフィシャルブログ」の「[http://ameblo.jp/minamishinsuke/entry-11276922679.html 母の話 その11]」より引用(2012-6-14閲覧)(引用開始)「そんな訳ないでしょう‼//イタズラと本当に倒れているのは明らかに違います!/母はすぐに気づきましたよ!/すぐに救急車の手配もしてます。/確かに母は/「私がいれば良かった!パパを一人にするんじゃ無かった!パパを一人で死なせた事は生涯、背負っていく!」/と叫んでいました。/しかし複数の医師の判断は/「発作が起きて十数秒で意識を失っています。/例え医師が横に居ても助けるのは難しい。奥様、ご自分を責めない様に」との事です。/母の名誉の為に記しました。」(引用終了) </ref>。コメディアンや演芸人には仲間や自身の生涯を締めくくる儀式で悲しみを和らげる為に不謹慎な言動<ref>[[たこ八郎]]の死去など。</ref>やわざわざ手段を遺言で残すなど不文律の慣習傾向が一部にみられ、和子も事前に考えて用意した節があり発言のなかで「三波はよく死んだふりをして家族をからかうこと」は家族が喜ぶイタズラ(サプライズの贈り物など)をよく仕掛けていたとされる三波の信条に反し真偽は定かでない。
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[[戒名]]は「'''施明院太伸三省居士'''」。三波の[[墓]]は[[埼玉県]][[所沢市]]の「所沢聖地霊園」に所在する。墓石には、三波の[[座右の銘]]であった「'''喜劇とは笑わすだけにあらず 三波伸介'''」と刻まれている。
 
三波主演人気絶頂期遺作となっ[[1982年]][[12月]]に急死しため、事前収録され、年放送予定であった正月番組では「この番組は○月○日に収録したものです」とのテロップが流れた。正月に放送予定だったドラマ「[[ザ・サスペンス]]、[[刑事ガモさんシリーズ|刑事ガモさん]] - さらば愛しきテニス妻よ」は、予定を変更して年末12月11日に繰り上げて放送された。
 
遺産は[[不動産]]のみであり、初代伸介の死後に預金通帳を遺族が確認した処、全く残っていなかった。2代目伸介を継いだ長男の伸一は「気前が良すぎて全部使っちゃったんですよ。それで父が亡くなったらスッカラカンでした」という旨のコメントを語っている<ref>『[[爆報! THE フライデー]]』(TBS、2013年6月14日放送)より。</ref><ref>初代伸介は多忙極めるなかで稽古事や楽器などの個人レッスンには時間を作り、費用を惜しまなかったことが没後周囲の証言で明らかになっている。</ref>。
 
== エピソード ==
* 三波の代表的なギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少期の息子・伸一が言っていた言葉。ある日営業先でマネした際に客にウケ、それから使い始めたという説と、「大正テレビ寄席」初出演時、国定忠治役の戸塚がタイミングを間違えて突然抜刀。驚いた伸介のとっさの一言だったという説がある。
* 三波らが築いた「トリオブーム」を脅かした後輩の[[コント55号]]、とりわけ[[萩本欽一]]との間には長年不仲が伝えられていた。しかし実際はお互い対抗意識は無く、三波は萩本を可愛い後輩として常に温かく見守っていたという。三波は生前、萩本を愛称で「欽坊」と呼び、萩本は三波を「お兄さん」と呼んで慕っていた。急逝後の追悼番組として放送された「[[三波伸介の凸凹大学校]]」最終回では、萩本が出演し故人を偲ぶコメントを残しており、三波が亡くなるわずか20時間前に収録されたVTRが放映された。
* [[ザ・ドリフターズ]]のリーダー・[[いかりや長介]]とも親交が深く、兄弟分の間柄であった(三波の方が1歳年上)。いかりやの自伝『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分と同年輩の仲間が周囲にほとんどおらず、コメディの世界では三波だけが唯一の同年輩で、しかも同じ東京([[下町]])の生まれであったため、三波とは共通の話題を持つことができて嬉しかったという。
* 実際に三波がライバル視していたのは[[渥美清]]と[[藤山寛美]]であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じ[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
* 三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻和子夫人と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の[[三波伸介 (2代目)|三波伸一(のちの2代目三波伸介)]]が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「[[男はつらいよ]]」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。[[1977年]]に公開された[[松竹映画]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』[[山田洋次]]監督・[[高倉健]]主演で渥美が演じた渡辺係長の役を、[[1982年]]に[[菅原文太]]主演で[[テレビドラマ]]でリメイクされたとき、三波がこの役を演じている。
* のちの妻和子夫人は児童劇団銀の鈴を経て河井洋子の芸名で浅草ロック座でおもに[[ダンサー]]を勤めこの頃[[永井荷風]]に可愛がられダンサー仲間と食事をご馳走になったり話し相手になり子役からの芸能体験で小説の種を提供したと云う。[[1952年]]には新宿フランス座に移籍したのちに三波と出会った。
* 三波は50歳になった頃から、テレビでの活動を減らし、舞台での活動に力を注ぎ始めていた。好評だったNHK「お笑いオンステージ」が10年目の区切りとして[[1982年]]4月4日放送分で終了そのコーナーの一つだったてんぷく笑劇場をもと舞台で心機一転を図ったとも<ref>当時の芸能界において喜劇役者の代表といえば映画の渥美清、舞台の藤山寛美、そしてテレビの三波を指すのが通例であり、三波はテレビでの成功を収めた後、今度は渥美と藤山のライバルとして彼らと同じ舞台で競うことを新たな目標にしていたともされるがその目標は三波自身の突然の死により途中でで断たれることとなった。
映画の渥美清、舞台の藤山寛美、そしてテレビの三波を指すのが通例であり、三波はテレビでの成功を収めた後、今度は渥美と藤山のライバルとして彼らと同じ舞台で競うことを新たな目標にしていたとも言われる。</ref>されるが、その目標は自身の死により途中で断たれることとなった。
* NHKから伊東四朗に[[バラエティ番組]]『[[コメディーお江戸でござる]]』<ref>1994年8月~1999年3月まで</ref>の出演を依頼された際にはかつてのテレビ放映した舞台実況公開コメディーの再現と復活の熱意を制作スタッフから伝えられ、[[滝大作]]を交え企画段階から制作助言を行い伊東は「『お笑いオンステージ』は三波(伸介)という“上”がいて、私はわき役だったので楽でしたが、今回は座長として番組の中心にいるので苦労していますよ。全体を見渡さなければなりませんから。」と苦労を語っていた<ref> [http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=entertainment011 特集 なつかしの番組 コメディーお江戸でござる-NHKアカイブス]</ref><ref> 番組降板後に伊東は「てんぷくトリオ(ひいては三波)が果たせなった将来の一部を試みることが出来た。」と述懐している。</ref>。
* 「[[夜のヒットスタジオ]]」の2代目司会者となった際、当時のスタッフが三波に期待したのはいわゆるコメディリリーフとしての役割であり、当初は司会進行にはあまり関わっていなかったが、[[朝丘雪路]]降板後は進行にも本格的に参加するようになった。この番組の相手が当時1、2を競うオシャレなタレントとして知られていた[[芳村真理]]であったことに配慮してか、三波は毎週本番の前日に必ず服を数着新調してこの番組に臨むように心がけていたと伝えられている。このエピソードから構成を務めていた[[塚田茂]]は「三波さんには三枚目の役割を期待したが、どうしても(緊張していたせいか)二枚目になってしまう」と当時の司会ぶりを回顧している。前任のフリートーク・知的な毒舌を売りとした[[前田武彦]]、後任のエンターテイナーぶりを徹底していた[[井上順]]の間で三波の司会ぶりは埋没されてしまった感が否めないものの、前任の前田が引き起こしてしまった「共産党バンザイ事件」(詳しくは「夜のヒットスタジオ」「前田武彦」の項目を参照のこと)によるダメージから比較的早い段階で軌道修正に成功し、井上順司会抜擢以降の番組安定期、長寿番組化への道を歩みだす上で、明瞭かつ豪快なイメージのある三波がこの段階でこの番組の司会に抜擢されたことは番組史全体としては大きな意味があったということもできる。
* 生前に[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]・[[ライター]]・[[絵画]]に造詣を持っており、三波伸介一門が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。
* 息子の伸一が「2代目・三波伸介」を継ぐべきという意見が各方面から上がり、[[2009年]]の二十七回忌の日に襲名が行われることとなった。2009年[[12月8日]]、'''「二代・三波伸介」'''の襲名披露パーティーが[[東京ドームホテル]]<ref>『笑点』の収録会場である[[後楽園ホール]]の近くにある。</ref>にて執り行われた。<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/engei/TKY200912070087.html 2代目三波伸介、8日に襲名 45歳息子「思いを継ぐ」] - 朝日新聞、2009年12月7日</ref><ref>[http://www.news24.jp/entertainment/news/169335.html 27年ぶり2代目三波伸介誕生「新しい東京喜劇目指す」] - 日テレNEWS24、2009年12月8日</ref>
*自称「阿佐谷のセザンヌ」でテレビ番組「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」の似顔絵や「三波伸介の凸凹大学校」で披露するイラストなど素人ながら絵画の実力は高く[[水彩画]]を得意とし[[浅田飴]]の広告などに寄稿していた。後年に遺稿集「三波伸介画・書集 夢の途中」が刊行されている。
=== 笑点時代でのエピソード ===
*『[[笑点]]』司会者当時、レギュラー出演者の[[桂歌丸]]と[[三遊亭小圓遊#4代目|三遊亭小圓遊]]の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]が立会人となり、[[1972年]][[8月27日]]の放送の中で実際に行われた。
* 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。豪快な外見とは裏腹に、繊細で研究熱心であり、流れをシミュレーションして収録に臨んだ。特にこだわったのは、家族で楽しめる笑いであり、歌丸と小圓遊の罵り合いや林家木久蔵(現・木久扇)の「いやんばか~ん」、林家こん平の「チャラーン!」などの定番ネタは、三波のリードで名物になったものである。中でも座布団運びの松崎真を紹介する時の「陸に上がったトドの死体」「牛のよだれ」といったフレーズは語り草になっている。<ref name="minami1"/>
* 現在のように司会者がオープニングで客席に座って挨拶するスタイルを最初に取り入れたのは三波である。「『笑点』の顔として、お客様の中に入り一体感を持ちたい」との考えから始めたと言われる。なお、三波の司会当時は近くに座る観客にインタビューすることも多く、観客とのやり取りが番組の名物の一つとなっていた。
* [[飛行機]]が苦手で、普段は飛行機での移動を極力避けていたが、地方収録でやむを得ず飛行機を利用した際には、恐怖のあまり隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗したときには「飛行機が揺れるたびに僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
* [[生もの]]が苦手で、[[香川県|香川]]ロケで当地で一番といわれる[[料亭]]に招待された際には、出された[[白魚]]や[[刺身]]を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。
* 人気絶頂期の[[1982年]][[12月]]に急死したため、翌年のいくつもの正月番組(録画)で「この番組は○月○日に収録したものです」笑点のテロップが流れた。ただし、同じ[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]製作で当時正月に放送されていた「[[番組対抗かくし芸大会]]」には笑点チームで参加予定で亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。皮肉にもその演し物は『カルメン』であり、心臓を押さえながら最期を迎える役を演じていた。<ref name="minami1"/>
 
== テレビ出演 ==
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* [[アンデルセン物語]](声の出演<ref>{{Cite web | url = https://mediaarts-db.jp/an/anime_series/409| title = アンデルセン物語| publisher = メディア芸術データベース |accessdate = 2016-10-29}}</ref>)
ほか
 
== エピソード ==
* 三波の代表的なギャグ「びっくりしたなぁ、もう」は、幼少期の息子・伸一が言っていた言葉。ある日営業先でマネした際に客にウケ、それから使い始めたという説と、「大正テレビ寄席」初出演時、国定忠治役の戸塚がタイミングを間違えて突然抜刀。驚いた伸介のとっさの一言だったという説がある。
* 三波らが築いた「トリオブーム」を脅かした後輩の[[コント55号]]、とりわけ[[萩本欽一]]との間には長年不仲が伝えられていた。しかし実際はお互い対抗意識は無く、三波は萩本を可愛い後輩として常に温かく見守っていたという。三波は生前、萩本を愛称で「欽坊」と呼び、萩本は三波を「お兄さん」と呼んで慕っていた。急逝後の追悼番組として放送された「[[三波伸介の凸凹大学校]]」最終回では、萩本が出演し故人を偲ぶコメントを残しており、三波が亡くなるわずか20時間前に収録されたVTRが放映された。
* [[ザ・ドリフターズ]]のリーダー・[[いかりや長介]]とも親交が深く、兄弟分の間柄であった(三波の方が1歳年上)。いかりやの自伝『だめだこりゃ』によると、いかりやは自分と同年輩の仲間が周囲にほとんどおらず、コメディの世界では三波だけが唯一の同年輩で、しかも同じ東京([[下町]])の生まれであったため、三波とは共通の話題を持つことができて嬉しかったという。
* 実際に三波がライバル視していたのは[[渥美清]]と[[藤山寛美]]であり、特に渥美に対しては敵意をむき出しにしていたと言われる。三波と渥美は共に同じ[[ストリップ (性風俗)|ストリップ]]小屋から軽演劇を経た者同士であり、三波が大阪から戻り再起を期した頃には渥美は既にトリオコントから脱皮して一流芸能人の仲間入りをしていたことや、また三波の妻と渥美が旧知の間柄であったことなども、三波に一層の敵対心を抱かせた原因といわれる。三波が生前「喜劇王」を目指すと公言していたのも、ひとえに渥美を超えたい一心だったものともいえる。
* 三波が渥美を敵視するようになったきっかけは、同じ舞台役者であった妻和子夫人と結婚前、新橋でデートしている所に渥美と遭遇、渥美は三波を無視して妻と話し込み、去り際に「俺は先に行って待ってるからな、お前はぼちぼち来いよ」とつぶやかれたからであると、息子の[[三波伸介 (2代目)|三波伸一(のちの2代目三波伸介)]]が証言している。渥美は当時、日劇に呼ばれて一流芸人の仲間入りを果たした時期であり、三波は手に持っていた新聞を地面に叩き付けて悔しがったという。三波は息子に渥美と藤山寛美のビデオを見せて、自分とどっちが面白いかを尋ねるなど、終生ライバル視していたが、同時に「[[男はつらいよ]]」の映画は全部観ており、驚くほど細かいところまで観察していた。テレビなどでは披露されなかったが、渥美の物真似も上手く、芸人としての力量を認めていたからこそのライバル視であったことがうかがわれる。[[1977年]]に公開された[[松竹映画]]『[[幸福の黄色いハンカチ]]』[[山田洋次]]監督・[[高倉健]]主演で渥美が演じた渡辺係長の役を、[[1982年]]に[[菅原文太]]主演で[[テレビドラマ]]でリメイクされたとき、三波がこの役を演じている。
* のちの妻和子夫人は児童劇団銀の鈴を経て河井洋子の芸名で浅草ロック座でおもに[[ダンサー]]を勤めこの頃[[永井荷風]]に可愛がられダンサー仲間と食事をご馳走になったり話し相手になり子役からの芸能体験で小説の種を提供したと云う。[[1952年]]には新宿フランス座に移籍したのちに三波と出会った。
* 三波は50歳になった頃から、テレビでの活動を減らし、舞台での活動に力を注ぎ始めていた。好評だったNHK「お笑いオンステージ」が10年目の区切りとして[[1982年]]4月4日放送分で終了しそのコーナーの一つだったてんぷく笑劇場をもとに舞台で心機一転を図ったとも当時の芸能界において喜劇役者の代表といえば映画の渥美清、舞台の藤山寛美、そしてテレビの三波を指すのが通例であり、三波はテレビでの成功を収めた後、今度は渥美と藤山のライバルとして彼らと同じ舞台で競うことを新たな目標にしていたともされるがその目標は三波自身の突然の死により途中でで断たれることとなった。
* NHKから伊東四朗に[[バラエティ番組]]『[[コメディーお江戸でござる]]』<ref>1994年8月~1999年3月まで</ref>の出演を依頼された際にはかつてのテレビ放映した舞台実況公開コメディーの再現と復活の熱意を制作スタッフから伝えられ、[[滝大作]]を交え企画段階から制作助言を行い伊東は「『お笑いオンステージ』は三波(伸介)という“上”がいて、私はわき役だったので楽でしたが、今回は座長として番組の中心にいるので苦労していますよ。全体を見渡さなければなりませんから。」と苦労を語っていた<ref> [http://www.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=entertainment011 特集 なつかしの番組 コメディーお江戸でござる-NHKアカイブス]</ref><ref> 番組降板後に伊東は「てんぷくトリオ(ひいては三波)が果たせなった将来の一部を試みることが出来た。」と述懐している。</ref>。
* 「[[夜のヒットスタジオ]]」の2代目司会者となった際、当時のスタッフが三波に期待したのはいわゆるコメディリリーフとしての役割であり、当初は司会進行にはあまり関わっていなかったが、[[朝丘雪路]]降板後は進行にも本格的に参加するようになった。この番組の相手が当時1、2を競うオシャレなタレントとして知られていた[[芳村真理]]であったことに配慮してか、三波は毎週本番の前日に必ず服を数着新調してこの番組に臨むように心がけていたと伝えられている。このエピソードから構成を務めていた[[塚田茂]]は「三波さんには三枚目の役割を期待したが、どうしても(緊張していたせいか)二枚目になってしまう」と当時の司会ぶりを回顧している。前任のフリートーク・知的な毒舌を売りとした[[前田武彦]]、後任のエンターテイナーぶりを徹底していた[[井上順]]の間で三波の司会ぶりは埋没されてしまった感が否めないものの、前任の前田が引き起こしてしまった「共産党バンザイ事件」(詳しくは「夜のヒットスタジオ」「前田武彦」の項目を参照のこと)によるダメージから比較的早い段階で軌道修正に成功し、井上順司会抜擢以降の番組安定期、長寿番組化への道を歩みだす上で、明瞭かつ豪快なイメージのある三波がこの段階でこの番組の司会に抜擢されたことは番組史全体としては大きな意味があったということもできる。
* 亡くなる2ヵ月前にあった[[名古屋市|名古屋]]の[[中日劇場]]での[[座長公演]]の際には、朝食は食べず、昼食は[[味噌煮込みうどん]]、夕食はホテルで300グラムの[[ビーフステーキ]]という生活を、1ヵ月の公演中毎日続けたという。このような偏った食生活も早逝の一因になったと思われる。ただし、三波のマネージャーは「健康のために嫌いなものを食べるのもひとつの生き方。でも、好きなものを毎日食べてあの世に行くのもひとつの生き方」と述べている。
* その舞台で最後の共演者となった[[大村崑]]は、再演を誓い合って別れたばかりなので、訃報を聞いたときは「どっきりカメラだと思った」と号泣しながらマスコミの問いに答えている。
* 生前に[[ミニカー (玩具)|ミニカー]]・[[ライター]]・[[絵画]]に造詣を持っており、三波伸介一門が運営している「三波伸介記念館」のホームページで形見の所蔵品として公開している。
* 息子の伸一が「2代目・三波伸介」を継ぐべきという意見声から、[[2009年]]の二十七回忌の日に襲名が行われることとなった。2009年[[12月8日]]、'''「二代・三波伸介」'''の襲名披露パーティーが[[東京ドームホテル]]<ref>『笑点』の収録会場である[[後楽園ホール]]の近くにある。</ref>にて執り行われた。<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/stage/engei/TKY200912070087.html 2代目三波伸介、8日に襲名 45歳息子「思いを継ぐ」] - 朝日新聞、2009年12月7日</ref><ref>[http://www.news24.jp/entertainment/news/169335.html 27年ぶり2代目三波伸介誕生「新しい東京喜劇目指す」] - 日テレNEWS24、2009年12月8日</ref>
*三波の出身大学の後輩にあたる[[爆笑問題]]の[[太田光]]は、三波の大ファンであり、彼に弟子入りしたかったと何度か番組内にて、公言していた。
*自称「阿佐谷のセザンヌ」でテレビ番組「お笑いオンステージ」の「減点パパ(減点ファミリー)」の似顔絵や「三波伸介の凸凹大学校」で披露するイラストなど素人ながら絵画の実力は高く[[水彩画]]を得意とし[[浅田飴]]の広告などに寄稿していた。後年に遺稿集「三波伸介画・書集 夢の途中」が刊行されている。
=== 笑点時代でのエピソード ===
*『[[笑点]]』司会者当時、レギュラー出演者の[[桂歌丸]]と[[三遊亭小圓遊#4代目|三遊亭小圓遊]]の[[大喜利 (笑点)|大喜利]]における罵倒合戦が激化したため、2人の「和解式」を提案。三波と当時大喜利メンバーのリーダー格であった[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]が立会人となり、[[1972年]][[8月27日]]の放送の中で実際に行われた。
* 親分肌な性格で、てんぷくトリオや「笑点」メンバーらを纏める統率力に非常に優れていた。豪快な外見とは裏腹に、繊細で研究熱心であり、流れをシミュレーションして収録に臨んだ。特にこだわったのは、家族で楽しめる笑いであり、歌丸と小圓遊の罵り合いや林家木久蔵(現・木久扇)の「いやんばか~ん」、林家こん平の「チャラーン!」などの定番ネタは、三波のリードで名物になったものである。中でも座布団運びの松崎真を紹介する時の「陸に上がったトドの死体」「牛のよだれ」といったフレーズは語り草になっている。<ref name="minami1"/>
* 現在のように司会者がオープニングで客席に座って挨拶するスタイルを最初に取り入れたのは三波である。「『笑点』の顔として、お客様の中に入り一体感を持ちたい」との考えから始めたと言われる。なお、三波の司会当時は近くに座る観客にインタビューすることも多く、観客とのやり取りが番組の名物の一つとなっていた。
* [[飛行機]]が苦手で、普段は飛行機での移動を極力避けていたが、地方収録でやむを得ず飛行機を利用した際には、恐怖のあまり隣に同乗したスタッフの手をずっと握っていた。三波の飛行機嫌いを知らない若い男性スタッフが同乗したときには「飛行機が揺れるたびに僕の手を握って離さない。三波さんってホモっ気があるんじゃないんですか」とこぼしたという。
* [[生もの]]が苦手で、[[香川県|香川]]ロケで当地で一番といわれる[[料亭]]に招待された際には、出された[[白魚]]や[[刺身]]を同行していたマネージャーにどんどん薦めて自分の分まで食べてもらい、場の雰囲気を壊さないよう気を遣っていたという。
* 人気絶頂期の[[1982年]][[12月]]に急死したため、翌年のいくつもの正月番組(録画)で「この番組は○月○日に収録したものです」とのテロップが流れた。ただし、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の「[[番組対抗かくし芸大会]]」には笑点チームで参加予定で亡くなる4日前に三波も参加して演目の収録が行われたが、急遽エントリーを取り止めている。皮肉にもその演し物は『カルメン』であり、心臓を押さえながら最期を迎える役を演じていた。<ref name="minami1"/>
 
== ドキュメント番組 ==