「赤松晴政」の版間の差分

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[[画像:Grave of Akamatu Harumasa and his sister.jpg|thumb|長福山松安寺跡に残る赤松晴政の墓(右)]]
[[画像:Grave of Akamatu Harumasa.jpg|thumb|晴政の墓石]]
 
[[永正]]17年([[1520年]])、守護代の[[浦上氏]]との対立に敗れ、強勢隠居へ追いやられた父の義村から、僅か8歳で家督を譲られる。その後、備前[[守護代]]・[[浦上村宗]]への再反攻に失敗した父を、翌[[大永]]元年([[1521年]])9月に殺されている。[[山名氏]]の侵攻に対抗するため一時的に村宗と手を結んだこともあるが、山名氏の脅威が去ると再び争い、一時は居城の置塩城を追われ美作の[[新庄山城]]へ避難を余儀なくされたこともある。
 
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天文9年([[1540年]])から翌年にかけての尼子氏の[[安芸国]]遠征失敗([[吉田郡山城の戦い]])によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍・[[足利義晴]]より「晴」の字を賜り'''晴政'''(はるまさ)と改名したのはこの時期である。
 
天文21年([[1552年]])には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗に奪われ続けており、永禄元年([[1558年]]には政宗に擁立される嫡子[[赤松義祐]]とやむなく対抗する為、娘婿の[[赤松政秀]]の居城龍野城に逃れた。政秀の庇護下で義祐・政宗と争った晴政だったが、永禄8年([[1565年]])1月16日に死去した。
 
墓所は姫路市の[[松安寺]]跡に存在する。