「アメリゴ・ヴェスプッチ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
12行目:
| signature = AmerigoVespucci Signature.png
}}
'''アメリゴ・ヴェスプッチ''' ({{lang-it-short|Amerigo Vespucci}}, [[1454年]][[3月9日]] - [[1512年]][[2月22日]]) は、[[アメリカ州]]を探検した[[イタリア]]の[[探検家]]にして[[地理学者]]。[[フィレンツェ]]生まれ。身長約160cm(5ft3in)160cm(5ft3in)<ref>当時のアメリカでは、この身長でも平均ほどの高さであった。</ref>。
 
'''アメリゴ・ヴェスプッチ''' ({{lang-it-short|Amerigo Vespucci}}、[[1454年]][[3月9日]] - [[1512年]][[2月22日]]) は、[[アメリカ州]]を探検した[[イタリア]]の[[探検家]]にして[[地理学者]]。[[フィレンツェ]]生まれ。身長約160cm(5ft3in)<ref>当時のアメリカでは、この身長でも平均ほどの高さであった。</ref>。
 
== 出身について ==
32 ⟶ 31行目:
この頃1500年[[カブラル]]が、ポルトガル王の命によって[[喜望峰]]を超えてインドに向かう途上で、南緯16度52分の地点で[[ブラジル]]を発見した。ポルトガルは[[トルデシリャス条約]]によって、この領土を主張した。ポルトガル王は、発見された土地が単なる島なのか、あるいはスペインが既にその北側を探検していた大陸の一部なのか知ることを望んでいた。[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]はこの探検隊にブラジル北岸の探検経験をもつアメリゴ・ヴェスプッチを抜擢し、[[セビリア]]から呼び寄せる。
[[ファイル:Amerigo Vespucci.jpg|left|180px|アメリゴ・ヴェスプッチ]]
1501年から1502年にかけた第三回航海で南米大陸東岸に沿って南下した。あまりの寒さと暴風雨の厳しさに耐えかね引き返さざるを得なかったが[[南緯50度線|南緯50度]]まで到達することができた。当初ヴェスプッチに指揮権は無く、ゴンサロ・コエーリョ(Gonçalo (Gonçalo Coelho) Coelho)の指揮下にあったが、最終的にヴェスプッチが責任者となった。
 
アメリゴはこの第三回航海の最中にヨーロッパ人初の南半球での天体観測を行ったが、その記録はポルトガルの航海に関わる機密情報とみなされてマヌエル王によって没収された。地理学書の執筆に必要なその記録の返還を求め続けたが結局戻されることはなかった。『新世界』でも「第三の日誌を当ポルトガル国王陛下からお返ししていただきますならば<ref>長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、336頁。</ref>」、「当国王陛下からいまだ記録をお返ししていただかないという理由を御了承いただけるものと存じます<ref>長南実訳、アメリゴ・ヴェスプッチ 『新世界』(『航海の記録』大航海時代叢書 第1期 第1巻、岩波書店、1965年)、337頁。</ref>」と何度か触れて、他国への機密流出のためではなく純粋に学術的目的のために返還を求めているのだと訴えている。
38 ⟶ 37行目:
1503年から1504年にかけての第四回航海では南米北東部沿岸を探検した。ポルトガル王の元で二回の探検調査を終えた後、アメリゴは1505年にスペインの[[セビリア]]に帰還する。
 
当時のスペインではインディアス航海に関わる業務(航海技術の問題、地理情報の管理など)が日々膨れ上がっていた。これらを通商院から切り離すため、フェルナンド王はポルトガルに倣って航海士免許制、航海訓練所創設、王立地図台帳といった制度をスペインに導入することを決める。アメリゴ・ヴェスプッチと{{仮リンク|ファン・デ・ラ・コサ|en|Juan de la Cosa}}、[[ビセンテ・ヤーニェス・ピンソン]]、[[フアン・ディアス・デ・ソリス]]の四名で1507年から準備を開始、1508年にアメリゴ・ヴェスプッチが初代の航海士総監(Pilot(Pilot Major)Major)に任命される。
 
1512年、[[セビリア]]で死去。
 
== 「新世界」の概念 ==
 
アメリゴは1503年頃に論文『新世界』を発表する。1499年から1502年にかけての南米探検で彼は南緯50度まで沿岸を下った。南米大陸がアジア最南端([[マレー半島]]、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の経度をはるかに南へ越えて続くため、それが既知の大陸のどれにも属さない「新大陸」であることに気づいた。ちなみに当時は北米と南米が繋がっていることは判明していないので、彼の『新世界』は'''[[南アメリカ|南米大陸]]'''についてのみ論じている。ヨーロッパの古代からの伝統的世界観、アジア・アフリカ・ヨーロッパからなる三大陸世界観を覆すこの主張は当時最先端の知識人層である人文主義者たちにはセンセーショナルに受け入れられたが、ヨーロッパ全体にすぐ浸透したわけではない。
 
1507年、南ドイツの地理学者[[マルティン・ヴァルトゼーミュラー]]がアメリゴの『新世界』を収録した『世界誌入門』(Cosmographiae Introductio)を出版した。その付録の世界地図にアメリゴの[[ラテン語]]名アメリクス・ウェスプキウス ({{lang|la|Americus Vespucius}}) の女性形からこの新大陸に'''[[アメリカ州|アメリカ]]'''という名前が付いた。これがアメリカ大陸という名を用いた最初の例となった。
 
1513年の[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]の探検で北米と南米の二つの大陸が陸続きで繋がっていること、そして南の海([[太平洋]]。[[パナマ地峡]]の南にあたる)が確認された。しかしその後もインディアスという呼称は慣習的に根強く残った。
 
== 航海 ==
 
ヴェスプッチは生涯上、4度の航海を行ったといわれている。しかし最近の研究によると、第2期と第3期の航海は確かに信憑性はあるが、1497-1498年の初の航海と第4期航海については出来事そのものの存在について審議が必要となった<ref>{{cite web|url=http://www.millersville.edu/~columbus/papers/canaday.html |title=Life of Amerigo Vespucci |publisher=Millersville.edu |date= |accessdate=2010-02-28| archiveurl= http://web.archive.org/web/20100328011335/http://www.millersville.edu/~columbus/papers/canaday.html| archivedate= 28 March 2010 <!--DASHBot-->| deadurl= no}} {{Dead link|date=September 2010|bot=H3llBot}}(英語の記事)</ref>。
 
58 ⟶ 55行目:
 
== 関連書籍 ==
* Arciniegas, German (1955) Amerigo and the New World: the life & times of Amerigo Vespucci. New York: Knopf. 1955 English translation by Harriet de Onís. First edition published in Spanish in 1952 as Amerigo y el Nuevo Mundo, Mexico: Hermes.
* Pohl, Frederick J. (1944) Amerigo Vespucci: Pilot Major. New York: Columbia University Press.
* [[シュテファン・ツヴァイク]]著アメリゴ 歴史的誤解の物語ツヴァイク全集18  マゼラン及びマゼラン ツヴァイク伝記文学コレクション[[関楠生]]・[[河原忠彦]]訳、[[みすず書房]])
* アメリゴ・ヴェスプッチ  謎の航海者の軌跡 [[色摩力夫]] 中公新書、1993
* アメリゴ・ヴェスプッチの書簡集([[長南実]]訳 [[増田義郎]]注) 大航海時代叢書 第1 (1(航海の記録) 岩波書店 1965.
 
== 関連項目 ==