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尾張のみを残すところとなった武衛家であるが、乱後にすぐさま守護代織田氏の傀儡となったわけではなく、斯波義敏の子[[斯波義寛|義寛]]が9代将軍[[足利義尚]]による[[六角高頼]][[長享・延徳の乱|征伐]]へ織田氏(応仁の乱で大和守家・伊勢守家の2つに分裂していた)を従えて参陣しているように、武衛家は依然として守護代権力に対して優越した存在であった。
 
義寛の子[[斯波義達|義達]]の頃にも、遠江奪還のための出陣を繰り返す等、尾張守護の実態は保っていた。義達は、対立した守護代[[織田達定]](大和守家)を合戦で討ちとるなどして織田氏の勢力を抑え、あるいは尾張を中心とした[[戦国大名]]へと成長する可能性もあった。しかし、[[今川氏親]]に敗れて遠江奪還に失敗し、義達の幼少の子[[斯波義統|義統]]に家督を譲った。義達は通説では[[大永]]元年([[1521年]])に没したとされているが、実際にはそれから10年以上後にあたる[[天文 (元号)|天文]]2年([[1533年]])には義敦と改名した義達が尾張守護に在任しており<ref name="shimomura">下村信博「守護斯波氏の没落」(初出:『新修名古屋市史』第2巻(1998年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2)</ref>、近年の研究ではそれから48年後の[[永禄]]12年([[1569年]])まで健在であったとする説が有力になっている。これが事実だとすれば、義達(義敦)はその後の武衛家の没落はおろか、因縁の相手であった今川氏の崩壊([[駿河侵攻]])目の当たりにしたことになる<ref name=kinoshita/>。
 
義統が当主になると、武衛家は急速に衰え、その一方で大和守家の重臣[[織田信秀]]が頭角を現し、守護や守護代の勢力をしのぐようになる。天文23年([[1554年]])に守護義統が守護代[[織田信友]]に殺され、義統の嫡子[[斯波義銀|義銀]]は織田信秀の跡を継いだ[[織田信長|信長]]を頼って落ち延びた。信長にとって信友(大和守家)は本家・主君筋だが、信長は守護殺害の仇討を名分に信友を討ち取った。信長は織田伊勢守家や織田一族も倒し尾張一国をほぼ平定した。