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[[慶長]]7年([[1602年]])1月7日、[[近衛家]]との論争により京都を出奔する。2ヵ月後、[[徳川家康]]の取り計らいにより京都に戻る。慶長11年([[1606年]])5月29日、家康から[[寸白]]の薬の[[膏薬]]を与えられる<ref>[[宮本義己]]「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)</ref>。慶長12年([[1607年]])5月、輝子の死去をきっかけにして、[[出家]]して唯心院と号した。以後、[[江戸]]や[[駿府]]において徳川家康・[[徳川秀忠|秀忠]]父子に仕えて、[[近江国]][[蒲生郡]]内において1,030石を与えられた。家康側近の[[僧侶]]としては[[以心崇伝]]・[[天海]]に次ぐ地位にあったとされている。[[禁中並公家諸法度]]の編纂にも加わり、その正本は唯心によると言われている。元和9年([[1623年]])、秀忠の[[上洛]]に従い[[京都]]に戻り、薨去した。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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[[Category:1555年生]]
[[Category:1623年没]]
 
== 脚注 ==