「更始帝」の版間の差分

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6月、連合軍・漢軍が[[昆陽の戦い]]で劉縯の弟・劉秀による大勝利を収めた後、更始帝は劉縯によって降された宛城に入り、宗室諸将に対する冊封を行った。この月、更始帝は威名を恐れ劉縯らを騙し誅殺した。
 
また、更始帝は[[王匡 (更始)|王匡]]を派遣して[[洛陽]]を[[申屠建]][[李松]]を派遣して[[武関]]を攻め[[長安]]を目指し、一方[[汝南]]に天子を称し[[劉望]]に劉賜を派遣した。新朝の滅亡を実感した地方勢力は[[王莽]]の派遣した牧守を殺害し、更始の元号を使用するようになった。9月<ref>『後漢書』による。『漢書』では10月。</ref>、更始帝陣営がついに長安・洛陽を陥落させ、王莽の首級を得ている。10月には[[劉信 (汝陰侯)|劉信]]が劉望を破り、更始帝は洛陽遷都を行い更始2年([[24年]])2月に[[長安]]遷都を行った。
 
長安遷都後の更始帝は奢侈な宮廷生活に染まり、即位の朝政を岳父の[[趙萌]]に一任してその専権を放任した。[[赤眉軍]]が長安に迫った際に、[[張卬]]、[[廖湛]]、[[胡殷]]、申屠建と[[隗囂]]は謀議し、更始帝を脅して[[南陽]]に還ることを謀る。これが更始帝の耳に入り、5人は召された。隗囂は事が漏れたと悟って館に篭り、召された4人のうち3人は異常に気付き脱出し、それでも残った申屠建は斬られた。隗囂は[[天水]]に逃走、残り3人(三王:[[淮陽県|淮陽]]王張卬、穣王廖湛、隋王胡殷)は長安で謀反を起こして、逆に更始帝を長安から逃走させた。