「高松藩」の版間の差分

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寛永18年([[1641年]])、西讃地域に[[山崎家治]]が入り[[丸亀藩]]が興った。
 
寛永19年([[1642年]])、東讃地域に[[常陸国]][[下館藩]]より[[徳川御三家|御三家]]の[[水戸徳川家]]初代藩主・[[徳川頼房]]の長男・[[松平頼重]]が12万石で入封し、東讃地域に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり、[[江戸幕府|幕府]]より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。高松松平家は水戸徳川家の分家([[御連枝]])であるが、[[彦根藩]][[井伊家]]・[[会津松平家]]と共に代々[[江戸城]]の[[伺候席]]が溜詰(最も将軍の執務空間である「奥」に近い)であり、将軍の政治顧問を務める<ref>[[深井雅海]]『江戸城-本丸御殿と江戸幕府』([[中公新書]] 2008年)P24</ref>高い家格を有していた
 
頼房は兄である[[尾張藩]]主・[[徳川義直|義直]]・[[紀州藩]]主・[[徳川頼宣|頼宣]]に先だって男子をもうけたことを憚って、長男の頼重ではなく三男の[[徳川光圀|光圀]]を[[水戸藩]]主に立てた。しかし、光圀は後嗣を頼重の子である[[徳川綱條|綱条]]に譲り、自身の子である[[松平頼常|頼常]]を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、灌漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、[[幕末]]には財政は逼迫した。