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== 地動説と日本 ==
[[徳川吉宗]]の時代に[[キリスト教]]以外の漢訳洋書の輸入を許可した後、[[徳川家治]]の時代になって、通詞の[[本木良永]]が『和蘭地球図説』と『天地二球用法』の中で日本で最初に[[コペルニクス]]の地動説を紹介した。本木良永の弟子の[[志筑忠雄]]が『暦象新書』の中で[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]の法則や[[ニュートン力学]]を紹介した。画家の[[司馬江漢]]が『和蘭天説』で地動説などの西洋天文学を紹介し、『和蘭天球図』という星図を作った。[[旗本]]の[[片山松斎]](円然)司馬江漢から地動説のことを教えられ、『天文略名目』など地動説を紹介する著作を著している。医者の[[麻田剛立]]が[[1763年]]に、世界で初めてケプラーの楕円軌道の地動説を用いての[[日食]]の日時の予測をした。幕府は西洋天文学に基づいた暦法に改暦するように[[高橋至時]]や[[間重富]]らに命じ、[[1797年]]に月や太陽の運行に楕円軌道を採用した[[寛政暦]]を完成させた。[[渋川景佑]]らが、西洋天文学の成果を取り入れて、[[天保暦]]を完成させ、[[1844年]]に寛政暦から改暦され、明治時代に[[太陽暦]]が導入されるまで使われた。
 
== 地動説のもたらしたもの ==