「マシュー・ロック」の版間の差分
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一方、トマス・シャドウェルの台本による《テンペスト The Tempest》([[1674年]]~)は現存している。この作品もまた共作で、[[アリア]]のいくつかはジョン・バニスターが、マスクのいくつかは[[ペラム・ハンフリー]]が担当している。しかしながら部分ごとの首尾一貫性があり、全体像はいわゆる「[[劇付随音楽]]」として、ロックの手でまとめられている。この作品で記憶に残りやすいのは、「序幕の音楽(カーテン・テューン)」であり、ロックは[[クレシェンド]]を(音楽史上で)初めて使って、嵐の模倣を表した。
[[オリヴァー・クロムウェル]]が[[護国卿]]だった時期は、世俗音楽の作曲家にとってまことに怪しからぬ時期であった。ロックにとっては、そのうえ危険な時期でもあった。[[カトリック教会|カトリック]]に[[改宗]]していたからである。ロックは、[[ヘンリー・パーセル]]の父親やおじと親交があり、パーセル少年がロックを身近に知っていたことは間違いない。重要な出版人ジョン・プレイフォードとも親交があった。[[1650年代]]の中ごろに、ヘレフォードシャー出身の1歳年下の女性と結婚した。
ロックの経歴は、[[1660年]]の王政復古とともに盛んになった。チャールズ2世は[[弦楽器]]に熱狂したため、ロックを新設された弦楽合奏団の作曲家と、私的な宮廷作曲家に任命した。一方のロックは、戴冠式の音楽を作曲しているが、その器楽パートに、伝統的な王宮吹奏楽団(His Majesty's Sagbutts and Cornetts)を利用している。加えてロックは、[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ドラーギ]]と争って、王妃キャサリンの専属オルガニストの地位を手に入れた。チャールズ2世のカトリック贔屓から、敬意をもって大幅に好意的な態度をロックに示したということもあり得なくない。しかしながらこれは、非カトリックの作曲家たちの宿怨を買うという弱みにもなった。おそらく反対陣営の肩入れで、ロックは[[博士号]]を取得し損なったと思われる。
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生前ロックは、多くの同僚作曲家から嫉妬の目を向けられたが、非常に人気の人物でありつづけた。[[サミュエル・ピープス]]は、ロックの作品の価値を評価している。イギリス・バロック音楽の開拓者として、ロックはしかるべき地位に就いていた。パーセルは宮廷作曲家としてロックの後を継ぎ、ロックのために追悼音楽を作曲した。後世になるとロック作品はやや忘れられがちであったが、[[20世紀]]になると関心が取り戻された。かくてイギリスのバロック音楽におけるロックの重要性が、再認識されるようになったのである。
== 作品一覧 ==
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