「真田信之」の版間の差分

m
ESSAY
(誤字)
m (ESSAY)
}}
'''真田 信之'''(さなだ のぶゆき)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]、[[大名]]。[[信濃国|信濃]][[上田藩]]の初代藩主、後に信濃[[松代藩]]の初代藩主。
あの日本一の兵真田信繁(幸村)の1つ歳上の兄である
戦国武将では異例の享年93歳でその生涯を閉じた
関ヶ原の戦いの前に父昌幸 弟信繁(幸村)と3人で犬伏で徳川方か豊臣方につくか会議(犬伏の別れ)を行ったその結果父昌幸 弟信繁(幸村)が
西軍(豊臣方)信之が東軍(徳川方)につくことになった
結果は西軍(豊臣方)が敗北父昌幸 弟信繁(幸村 )は高野山へ流刑となったそして信之は徳川方の家臣や家康に昌幸と信繁(幸村)の助命交渉するが報われず高野山で父昌幸が死去享年65歳だったそして1614年豊臣方と徳川方が激突
俗に言う大坂の陣が勃発した 豊臣方には弟に当たる信繁(幸村)が高野山を豊臣方の武将に誘われ大坂城に入城し豊臣方に参陣していた
信之は出陣する準備をしたものの病気で参陣出来ないため代わりに息子たちを大坂の陣に送った冬の陣は豊臣方の勝利で終戦した
そしてその一年後、大坂夏の陣が勃発
堀が埋まってしまい野戦を行うしかない豊臣方最初は豊臣方優勢であったが徐々に徳川方が反撃に転じたそしてある一報が信之の耳に入る弟の信繁(幸村)が戦死したということを耳にした信之だったそして戦いは徳川方の勝利で終戦した豊臣秀頼 淀殿は自害し豊臣家は滅亡した
そして信之は幕府から思いもよらぬことを詰問されるとある徳川家臣がこう信之に発言した
(信之殿が幸村と通じているではないか)
こういうしてもないことを徳川家臣に言われたのである
信之はこう返答したという
(この信之関ヶ原で父と弟と決別し徳川方に忠誠を誓うことに致した私が弟と通じるわけがなかろう)と返したという
そして家康が亡くなり秀忠、家光、家定の世の中になった
そして真田家は徳川幕府から父昌幸の代から守ってきた上田(長野県)の領地から松代(長野県)へ移された
信之は通常藩主が引退する年になっても信之は現役で働き続けた
そして93歳でその一生を閉じた
 
== 生涯 ==
17,425

回編集