「中村修二」の版間の差分

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Encyc2017 (会話 | 投稿記録)
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「通常のサラリーマンとしては失格」とかuser:Honakendoさん(Special:permalink/53127390)独自の感想でしょ.NHK解説員の言葉として記録されてませんよ.
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日亜化学工業時代に商品化したものとしては、ガリウム系半導体ウェハーなどがあったが、ブランド力や知名度が低く売れなかった。その頃、[[名古屋大学]]の赤崎勇教授のグループが青色発光ダイオードの実現に絶対不可欠な高純度の窒化ガリウム(GAN)の結晶膜に、世界で初めて実現したという公開された論文を手に入れ、検証実験を繰り返し、基盤となる青色発光ダイオードの原理を学習した結果、まだ実用化できていないものに取り組もうということで、青色発光ダイオードおよび青色半導体レーザーに挑戦することを決意する。青色発光ダイオードの開発を社長の[[小川信雄 (実業家)|小川信雄]]に直訴し、中小企業としては破格の約3億円の開発費用の使用を許される{{Sfn|武田先端知|2006|p=5}}。
 
中村はまた社長に留学を直談判し<ref name=nhk_jiji/>、1988年4月から1年間の予定で、[[アメリカ合衆国]]の[[フロリダ大学]]へ留学する。[[有機金属気相成長法|MOCVD]] を勉強するための中村の希望であったが、日亜化学としては元々、[[徳島大学]][[助教授]]酒井士郎の勧めで、フロリダ大学へ誰か社員を派遣する計画であった{{Sfn|テーミス編集部|2004|pp=80-81}}{{Sfn|日経サイエンス|2014|p=21}}。中村は修士修了で博士号を持っていなかったため、留学先で研究者として見てもらえず悔しい思いをしており、「コンチクショー」と博士号取得や論文執筆への意欲を新たにした{{Sfn|中村|2004a|pp=122-127}}。
 
1年間の留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かる。会社命令を無視、会議にも出席しない、電話に出ないと、通常のサラリーマンとしては失格と言われても仕方のない勤務態度だったが、度量の広い創業者社長のおかげで破格の研究費の下で実験を続けた{{R|nhk_jiji}}。なお、2014年に中村修二へのノーベル物理学賞授与が発表されたとき、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている{{R|読売20141008}}。
 
当時の応用物理学会、研究会などでは[[セレン]]系に注目が集まっていた一方、ガリウム系の研究会は人数も少なかった。しかし中村は「あれだけ優秀な人たちが取り組んでもうまくいかないならば、むしろ終わったとされる分野に挑んだ方が良い」ということで、ガリウムに着目。その後、青色発光素子であるGaN([[窒化ガリウム]])の結晶を作製する[[ツーフローMOCVD]]を発明し、窒化ガリウムによる高輝度青色発光ダイオードの開発に参加した。
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<ref name=nhk_jiji>{{Cite episode
|series = NHK 時論公論
|title = ノーベル物理学賞 日本人研究者3人に独占の快挙
|credits = 水野倫之解説委員
|airdate = 2014-10-08
|network = NHK総合
|url=http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/201892.html
}}(午前0:00放送)</ref>
<ref name="読売20141008">“[http://www.yomiuri.co.jp/science/20141008-OYT1T50134.html?from=ytop_main1 中村修二教授「開発が偉大でも市場で勝てない」]”. ''読売新聞''. (2014年10月8日) 2014年10月8日閲覧。</ref>