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名称として「後の別創菴」としていたが、「後、別に創菴」と判明した為 |
平等院第2代執印であった事、法勝寺初代別当であった事を加筆 |
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'''覚円'''(かくえん、[[長元]]4年([[1031年]])- [[承徳]]2年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]([[1098年]][[5月19日]]))は、[[平安時代]]後期の[[天台宗]]の僧。[[摂政]][[関白]][[太政大臣]][[藤原頼通]]の子。宇治僧正とも称される。
[[園城寺]][[明尊]]のもとで[[出家]]し、[[顕教]]・[[密教]]を学んだ。[[天喜]]2年([[1054年]])権少僧都、天喜3年([[1055年]])法印、[[康平]]6年([[1063年]])園城寺[[長吏]]、[[康平]]7年([[1065年|1064年]])平等院第2代執印、[[康平]]8年([[1065年]])大[[僧正]]に任じられた。[[承暦]]元年([[1077年]])に[[天台座主]]就任の[[勅許]]を受けたが、[[延暦寺]][[門徒]]の反対により3日で辞任に追い込まれ、代わりに[[法勝寺]]初代[[別当]]となった。その後は、宮中で修法を行い霊験が著しかったという。宮中や[[貴族]]たちの信任が厚く、[[嘉保]]3年([[1096年]])1月には[[牛車宣旨]]を賜っている。
== 覚円坊 ==
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