「先発ローテーション」の版間の差分

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しかし、稲尾・権藤をはじめ、酷使の影響で故障して選手生命を縮めた選手が多数出たことを教訓に、1960年代後半から救援専門投手が整備され始め、1975年、[[広島東洋カープ]]監督[[ジョー・ルーツ]]が[[外木場義郎]]、[[池谷公二郎]]、[[佐伯和司]]を柱とした先発ローテーションを投入したのを皮切りに、1980年頃には各球団で先発ローテーションが確立していった。1980年代は中5日のローテーションを組むチームが多く、先発投手が好調と判断した場合、先発投手に長い回を投げさせることも行われていたが、シーズンの投球回が300回を超えるような投手起用はなくなった。
 
そのような中、中6日のローテーションは故障を抱えた[[村田兆治]]や[[郭泰源]]が採用したのをきっかけに、1990年代になると入り急速に普及するしていく。その一方で、先発投手の次回登板時の疲労に配慮し、投球数の多い先発投手を中継ぎ投手へ交代させることが増えたため、シーズンの投球回はさらに減少した。
 
4月1日から9月30日まで中5日で投げ続けると単純計算した場合、登板回数は30 - 31、中4日で36 - 37である。シーズン最多勝利のプロ野球記録は[[ヴィクトル・スタルヒン]]と稲尾がそれぞれ記録した42勝であるが、中4日以上開けるのが不可欠とされる現代において、記録更新は不可能であると言ってもいい。