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浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。この頃の引馬城は、江戸時代の絵図にみられる「古城」と表記された部分であり、現在の元城町[[東照宮]]付近にあたる。
 
徳川家康が[[元亀]]元年([[1570年]])に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進め た。徳川家康在城時における浜松城の具体像は不明確であるが、古文書や出土遺物から現在の本丸に向けて城域が拡張されたことが窺える。また、徳川家康が築造した浜松城は、土造りの城であり、石垣や瓦葺建物を備えていなかったとされる。
 
慶長5年([[1600年]])、関ヶ原の戦い以後、江戸時代を通じて徳川家譜代大名の居城となり、浜松城から豊臣色は失われる。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれていき、歴代の城主によって城域の改変・改修が進められた。
 
堀尾氏在城期に創建された天守は、17世紀のうちに姿を消し、天守台のみが現在に伝わる。以降、天守門が浜松城の最高所に位置する建造物といえ、江戸時代を通して浜松城を代表する建物であったことが窺え る<ref>発掘報告では、浜松城の天守門は幅約10.92mはほぼ確定的であり、高さ37.0mであると推測している(「[http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/16976?all=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%9F%8E 浜松城跡5次]」2011)。</ref>
 
明治6年([[1873年]])の廃城令によ り、浜松城の建物や土地の払い下げが行われ、三 の丸、二の丸の宅地化が進行した。天守曲輪と本丸の一部は大きな開発を免れ、昭和25年([[1950年]])の浜松城公園開設に至る<ref>[http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/16977?all=%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%9F%8E 和田達也 編著『浜松城跡8次』浜松市教育委員会、2013]</ref>。
 
== 歴史 ==
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[[三方ヶ原の戦い]]では徳川軍の一方的な敗北の中、[[徳川家康|家康]]も討ち死に寸前まで追い詰められ、[[夏目吉信]]や[[鈴木久三郎]]を身代わりにして、[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬吉右衛門]]、[[日下部定好|日下部兵右衛門]]、[[小栗久政|小栗忠蔵]]、[[島田重次|島田治兵衛]]といった僅かな供回りのみで'''浜松城'''へ逃げ帰った。この敗走は後の[[伊賀越え#神君伊賀越え|伊賀越え]]と並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる[[空城計]]を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。'''浜松城'''まで追撃してきた[[山県昌景]]隊は、[[空城計|空城の計]]によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げたといわれる。
 
 拡張・改修は天正10年([[1582年]])ごろに大体終わった<ref name="owadatetsuo95657"/>が、その4年後の天正14年([[1586年]])、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。
 
 拡張・改修は天正10年([[1582年]])ごろに大体終わった<ref name="owadatetsuo95657"/>が、その4年後の天正14年([[1586年]])、家康は浜松から駿府に本拠を移した。家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。
 
=== 家康以後 ===
家康以後、天正18年([[1590年]])からは秀吉の家臣[[堀尾吉晴]]と、その次男[[堀尾忠氏]]が合わせて11年間在城したが、[[関ヶ原の戦い]]の功績で[[出雲国]][[月山富田城|富田]]に移封。以後は、一時[[徳川頼宣]]の領地だった時期を除いて、[[譜代大名]]各家が次々に入った。近世には天守は存在しなかったようで絵図にも記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。
 
浜松城は[[明治維新]]後に廃城となり破壊された。城址は昭和25年([[1950年]]に「浜松城公園」となり、昭和33年[[1958年|(1958年)]]に[[鉄筋コンクリート]]製の復興[[天守]]が再建された。[[1959昭和34]](1959年)には浜松市の史跡として指定された。
 
現在の天守閣は資料館として使われており、家康を初めとした当時のゆかりの品々を見学できるほか、城の周辺は緑が溢れ、[[サクラ|桜]]の名所としても名高く、シーズンには[[花見]]客で溢れ返る。
 
もともと曳馬城だった部分には、江戸時代には米蔵などが置かれていた。明治維新後の明治27年([[1894年]]に[[井上延陵]]によって[[東照宮]]が創建され、[[太平洋戦争]]中の昭和20年([[1945年]])に焼失したが昭和34年([[1959年]]に再建されて現在に至る。
 
=== 歴代城主(藩主) ===