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[[大永]]2年([[1522年]])には室町幕府においては前例のない{{Refnest|group="注釈"|陸奥・出羽は守護不設置であり、探題・国人による支配だった<ref>『中世出羽の領主と城館』p.90-92</ref>。}}陸奥守護に補任された。
 
[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])に居城を[[梁川城]](現・福島県[[伊達市 (福島県)|伊達市]])から[[西山城]](現・福島県[[桑折町]])に移すと体制の強化に努め、天文2年([[1533年]])に『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、天文4年([[1533年]])の『棟役日記』、天文7年([[1538年]])の『御段銭帳』などの徴税台帳を作成。天文5年([[1536年]])には171条に及ぶ[[分国法]]『[[塵芥集]]』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。また同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、[[大崎義直]]の要請に応じ南奥州の諸侯を従えて出動し、その代償として二男・[[大崎義宣|義宣]]を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置くことに成功した。
 
ところが、三男・[[伊達実元|実元]]の[[越後国|越後]][[守護]]・[[上杉定実]]への入嗣や、婿の[[相馬顕胤]]への伊達領割譲などの問題をめぐって長男・[[伊達晴宗|晴宗]]や[[桑折景長]]・[[中野宗時]]ら家臣団との対立を次第に深める、天文11年([[1542年]])6月、ついに鷹狩りの帰途を晴宗に襲撃され、捕えられた稙宗は西山城に幽閉されたが、程なくして[[小梁川宗朝]]により救出された。稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で[[天文の乱]]が勃発する。この争いは当初稙宗方が優勢だったが、天文16年([[1547年]])に味方であった[[蘆名盛氏]]が晴宗に寝返ったことで、一転して戦況が不利に傾き、天文17年([[1548年]])9月、将軍・[[足利義輝]]の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って[[丸森城]]に[[隠居]]することを余儀なくされた。6年に及ぶこの乱の影響で、従属下にあった大崎・葛西・最上・相馬・蘆名の各氏が従属関係を脱した。
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