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このあと、ダーバーは[[ダービーステークス|イギリスダービー]]を目指して[[エプソム競馬場]]へ向かった。ダービーには、史上最多の部類になる30頭が出走し、ダーバーの単勝馬券は21倍になった。出走馬がこれほど増えたのは、「ダメもと<ref group="注">ボストンイブニング紙の原文は「forlorn hopes」</ref>」で登録した馬の登録料の合計が巨額になったからで、それを狙って「ダメもと」で出走するものが多かったからだと、当時の新聞は伝えている<ref name="BET_19140528"/><ref group="注">この世代で、後世によく知られた馬は[[ザテトラーク]]である。ザテトラークは2歳の時に7戦無敗の強さをみせたが、3歳になると2000ギニーもダービーも怪我で出走できないまま引退した。</ref>。
前年(1913年)のダービーでは、[[
ダーバーの騎手は、フランスを本拠とするアメリカ人騎手のマット・マクギー(Matt MacGee)だった<ref name="NHM-983"/>。マクギー騎手は、道中半ばでダーバーを先頭に立たせると、そのまま3馬身差で逃げ切った<ref name="GRA_19140529"/>。2着と3着にも人気薄のハプスブルグ(Hapsburg、単勝34倍)とピーターザハーミット(Peter the Hermit、単勝101倍)<ref name="WU_19140528"/>が飛び込んで大波乱となり、競馬場の大観衆は声も出せずに固まったままだった。勝ったダーバーはフランス産馬でフランス調教馬だったが、馬主がアメリカ人だったので、アメリカではアメリカ馬が優勝したかのように沸き返った<ref name="TH_19140527"/>。
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