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{{基礎情報 過去の国
|略名 = 任那
|日本語国名 = 任那
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|建国時期 = ?
|亡国時期 = 562年
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{{Double image aside|right|Map of Gaya - han.png|210|任那・加羅、百済、新羅.png|210|{{center|[[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]]、4~5世紀半ばの朝鮮半島}}{{small|左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。}}}}
 
{{朝鮮の歴史}}
'''任那'''(みまな/にんな、? - [[562年]])は[[古代]]に存在した[[朝鮮半島]]南部の地域。
 
== 概要 ==
[[朝鮮半島]]における倭国の北端である『[[三国志]]』魏書東夷伝倭人条の項目における[[狗邪韓国]](くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地域、[[三韓]]の[[弁辰]]、[[弁韓]]および[[辰韓]]の一部、[[馬韓]]の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含むと看做すのが通説である。任那諸国<ref>通典辺防典</ref>の中の[[加羅#金官国(駕洛国)|金官国]](現在の[[慶尚南道]][[金海市]])を指すものと主張する説もある(後述)。
 
後に狗邪韓国(金官国)そして任那となる地域は、[[弥生時代]]中期(前4、3世紀)に入り従来の土器とは様式の全く異なる[[弥生土器]]が急増し始めるが、これは後の任那に繋がる地域へ倭人が進出した結果と見られる<ref>『朝鮮半島出土弥生系土器から復元する日韓交渉』[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/43794]東京大学考古学研究室研究紀要. 第25号, 2011年3月, pp.65-96</ref>。
 
[[第二次世界大戦]]後、次第に政治的な理由により任那問題を避けることが多くなっていた<ref group="注釈">吉田1997 p.74、森1998等 実際に、『朝鮮史』(山川出版社<新版世界各国史2>、2000年 ISBN 4-634-41320-5)においても、任那については広開土王碑文に登場する「任那加羅」や、弁韓諸国の系統の一小国としてしか扱われていない。</ref>が、倭が[[新羅]]や[[百済]]を臣民とした等と書かれている、[[好太王碑|広開土王碑]]日本軍改竄説が否定され、史料価値が明確になったこと<ref group="注釈">従来、日本軍による改竄の可能性があるとされてきたが、[[2006年]]4月に中国社会科学院の徐建新により、[[1881年]]に作成された現存最古の[[拓本]]と[[酒匂本]]とが完全に一致していることが発表された。</ref>、またいくつもの日本固有の[[前方後円墳]]が朝鮮半島南部で発見され始めたことなどから、近年ヤマト朝廷そのもの或いは深い関連を持つ集団による統治権、軍事統括権および徴税権の存在について認める様々な見解が発表されている。
 
== 金石文 ==
大師諱'''審希'''俗姓'''新金氏'''其先'''任那王族'''草拔聖枝每苦隣兵投於我國遠祖'''興武大王'''鼇山稟氣鰈水騰精握文符而出自相庭携武略而高扶王室<ref>[http://kostma.korea.ac.kr/riks/sub6/sub6View.do?base_uci_no=1003 신라진경대사탑비명(新羅眞鏡大師塔碑銘)]</ref><ref>[http://www.dbpia.co.kr/Journal/ArticleDetail/560466 新羅 中代 新金氏의 登場과 그 背景]</ref>
 
== 語源と読み ==
任那の語源については、『[[三国遺事]]』所収の『駕洛国記』に見える[[首露王]]の王妃がはじめて船で来着した場所である「主浦」村の朝鮮語の訓読み(nim-nae)を転写したものとする[[鮎貝房之進]]の説が日本の学界では主流を占める<ref group="注釈">該当の論考は、鮎貝房之進『日本書紀朝鮮地名攷』国書刊行会 1971年復刊(『雑攷』第7輯上下巻 1937年刊の複製再版)によるもの。(→田中1992 p.37)</ref>。また日本語呼称の「みまな」は、「nim-na」という語形が、日本語の音節構造に合わせて開音節化(音節末子音に母音が付加されること。この場合はm→ma)した後に、逆行同化(後続音の影響を受けて前部の音が変化すること)によって語頭子音のnがm化した結果成立したものと推定されている。
== 領域 ==
任那のさす領域については、相異なった二つの見方=広義と狭義とがある。
 
=== 狭義の任那説 ===
狭義の任那は、任那地域に在った[[伽耶#金官国(駕洛国)|金官]]国(現代の[[慶尚南道]][[金海市]])を指す<ref name=yoshida>吉田1997 pp.74-76.</ref>。中国及び朝鮮史料の解釈ではこちらの用法が多いが、『[[日本書紀]]』では[[532年]]に金官国が新羅に征服されてからも、それ以外の地域が相変わらず任那とよばれているから『日本書紀』の用法は後述の「広義の任那」である。
<!--{{出典の明記}}-->
<!--出典ナシの状態は適切ではないと思います。
=== 狭義の任那(大加羅説) ===
狭義の任那は、狭義の加羅(広義の加羅は加羅諸国全域の総称だが、狭義では大加羅(=[[伽耶#大伽耶|大伽耶]]、現代の[[慶尚北道]][[高霊郡]])、『日本書紀』では伴跛国ともいう)と同じく「大加羅」をさすという説。加羅諸国の中心的な国は南加羅(金官国)と大加羅の二つであるが、後者は「金官」という固有名があるのに、前者には固有名がない(その他の加羅諸国もすべて固有名をもつ)。そのため「任那」はもともと大加羅の固有名だったのではないかと考えられていた。古くは『続海東繹史』が三国志東夷伝韓条の弁韓12国の一つの弥烏邪馬国が後の大加羅のこととし、ミマナは弥烏邪馬が訛ったものとした。[[李丙燾]]はこの説を支持した上で「弥烏邪馬」は誤写でもとは「弥馬邪烏」か「弥烏馬邪」が正しかったのではないかと推測した。朝鮮民族史学の[[申采浩]]も任那加羅とは大加羅のことであるとする。しかしその後の研究により、大加羅とは別の国で今の[[星州]]にあったと考えられていた「[[伴跛国]]」が、実は大加羅の別名で同一の国であるという説が通説となり、大加羅の固有名は「伴跛」であることが確実視されるようになった。大加羅は最後(562年)まで残ったので、「562年に任那の滅亡」という言い方は、狭義でも広義でも当てはまる。-->
 
=== 広義の任那 ===
広義の任那は、任那諸国の汎称である。後述の諸史料のうち日本史料では任那と加羅は区別して用いられ、任那を任那諸国の汎称として用いている。中国及び朝鮮史料の解釈でも、広義では任那諸国全域の総称とする説がある。百済にも新羅にも属さなかった領域=広義の任那の具体的な範囲は、例えば[[478年]]の[[倭王武]]の[[上表文]]にみられる「任那・加羅・秦韓・慕韓」にて推測できる。ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は上記の「狭義の加羅」=大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など<ref>[[山尾幸久]]は倭王武の上表文中にでてくる「秦韓」とは辰韓12国のうちの優中国(現在の[[慶尚北道]][[蔚珍郡]]のことであるとする。</ref>。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された[[任那四県]]など、にそれぞれ該当する。『日本書紀』ではこれらの総称として任那という地名を使っているが、これらはこの後、徐々に新羅と百済に侵食されていったため、時期によって任那の範囲は段階的に狭まっており、領域が一定しているわけではないので注意が必要である。
 
朝鮮史学者の[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]は、朝鮮・中国の史料では任那を加羅諸国の汎称として用いることはなく金官国を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法だと主張した<ref>田中1992 pp.31-37.</ref>。朝鮮史学者の[[権珠賢]]は日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加羅の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、百済にも新羅にも属さなかった諸小国の総称であること、任那の範囲と加羅の範囲は一致しないこと、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であると主張している<ref>権珠賢(下)1998 pp.38-39.</ref>。日本史学者の[[吉田孝]]は、『日本書紀』が加羅諸国を総称して任那と呼んだとする田中説が一般化したことを批判し、『日本書紀』の任那の用法は、「ヤマト」が大和国を指すと同時に倭国全体を指すのと同様に、任那加羅(金官国)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指したものであると主張している<ref name=yoshida>吉田1997 pp.74-76.</ref>。
 
日本史学者の[[森公章]]によると、現在([[2015年]])は任那は[[百済]]や[[新羅]]のような領域全般ではなく、領域内の小国金官国を指す場合が多く、それらの複数の小国で構成される領域全般が加耶と称すという[[学説]]が有力視されているという<ref>『[[毎日新聞]]』2015年08月11日 東京朝刊</ref>。
 
=== 任那日本府 ===
{{see also|任那日本府}}
[[1960年]]代頃から朝鮮半島では[[朝鮮民族主義歴史学|民族主義史学]]が広がり、実証主義への反動から、記紀に記されている[[ヤマト王権]]の直接的な任那支配は誇張されたものだとの主張がなされた(後述)。
 
1983年に[[慶尚南道]]の松鶴洞1号墳(墳丘長66メートル)が[[前方後円墳]]であると[[嶺南大学校|嶺南大学]]の[[姜仁求]]教授が実測図を発表したが<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]姜仁求教授によると、全長66メートル、後円径37・5メートル、前方部が若干丸みを帯びているが、円墳2基ではなく前方後円墳であるという。後円部上に石材が露呈するが、それは[[鳥居龍蔵]]が1914年に発掘した竪穴式石室の一部である。『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』[[中央公論社]]、ISBN 978-4120016912</ref>、後の調査により、松鶴洞1号墳は、築成時期の異なる3基の円墳が偶然重なり合ったもので前方後円墳ではないとする見解を韓国の研究者が提唱したが<ref>[[沈奉謹]]編『固城松鶴洞古墳群 第1号墳 発掘調査報告書』(東亜大学校博物館、2005年)</ref>、松鶴洞1号墳は、日本の痕跡を消すために、[[改竄]]工事を行った疑惑が持たれている<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna][[森浩一]]によると、1983年に訪ねた際はダブルマウンドが丘陵上に造営されており、前方後円墳であることに躊躇なく、その後鳥居龍蔵が戦前に撮影した側面[[写真]]が発見されたことで確認できたが、その後、現在の形が近年の変形であるという噂話があったが、その噂話が意図的に流されていると感じていたという。松鶴洞古墳の発掘は、「発掘もある種の遺跡の破壊」という考古学の事例であり、近年の変形を示す兆候は存在しないが、原形がダブルマウンドなのかの前提を抜いて、円墳連続説が発掘開始直後から提出され、結論ありきの結果が流布されており、「これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。」と批判している。</ref>。これに関して[[1996年]]撮影写真は前方後円墳であったものが、[[2012年]]撮影写真では3つになっているという指摘がある(出典先に写真あり<ref>『[[歴史通]]』2014年1月号[http://web.archive.org/web/20150515002938/http://ironna.jp/article/1344?p=2 ironna]</ref>)。
 
朝鮮半島南西部では前方後円墳の発見が相次ぎこれまでのところ[[全羅南道]]に11基、[[全羅北道]]に2基の前方後円墳があることが確認されている<ref name=kokugakuin>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=44 國學院大學「韓国全羅道地方の前方後円墳調査」]
*前方後円墳に関する韓国報道など[http://s03.megalodon.jp/2008-0906-2110-36/www.chosunonline.com/article/20071118000001][http://s02.megalodon.jp/2008-0906-2112-04/www.hani.co.kr/section-009000000/2001/09/009000000200109062248001.html]</ref>。
 
また朝鮮半島の前方後円墳は、いずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したもので、[[百済]]が南遷して併呑を進める以前に存在した任那地域の西部<ref name=yoshida/>や半島の南端部に存在し、円筒[[埴輪]]や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている<ref name=kokugakuin/>。
 
ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)している[[ヒスイ製勾玉]]などがある。戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の[[糸魚川市|糸魚川]]周辺以外にヒスイ工房が発見されないこと<ref>門田誠一「韓国古代における翡翠製勾玉の消長」『特別展 翡翠展 東洋の神秘』2004</ref>に加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった<ref>早乙女雅博/早川泰弘 「日韓硬玉製勾玉の自然科学的分析」 朝鮮学報 朝鮮学会</ref>。
 
そのため、任那や[[加羅]]地域とその西隣の地域において支配権、軍事動員権および徴税権を有していた集団が、ヤマト王権と深い関連を持つ者達だった。ただしそれらは、ヤマト王権に臣従した在地豪族であって、ヤマト王権から派遣された官吏や軍人ではないという意見が有力である(詳しくは[[任那日本府]])。ともあれ少なくとも軍事や外交を主とする[[倭国]]の機関があり、倭国は任那地域に権限と権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたであろう<ref group="注釈">吉田孝は、「任那」とは、[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために[[百済]]・倭国([[ヤマト王権]])と結んだ任那加羅([[金官国]])を盟主とする小国連合であり、いわゆる伽耶地域とは一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域であったとした。また、[[532年]]の任那加羅(金官加羅)滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、[[562年]]の大加羅の滅亡で拠点を失ったと主張した(→吉田1997 pp.74-78.)。</ref>。
 
====実証主義を否定する韓国民族史観に基づく解釈====
現代韓国では民族の誇りを養う為、政府や学界が、[[記紀]]、考古学的成果、[[好太王碑|広開土王碑]]、『[[宋書]]』倭国伝等の史料を、積極的に曲解する[[朝鮮民族主義歴史学|民族史観]]を国を挙げて推進している<ref>http://yayoi.senri.ed.jp/research/re11/KKim.pdf</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/024/139024.html 国史編纂委員会「近代以前は植民史観、近現代は理念偏向相変わらず」]中央日報2011年04月11日11</ref>。
 
1963年、[[金錫亨]]は「[[分国論]]」を発表した。この主張は、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたというもので、具体的には加耶人が広島・岡山に、新羅が東北にという主張である。任那日本府の問題はそれぞれの分国がこれを争ったという解釈である<ref group="注釈">(金錫亨著 朝鮮史研究会編『大和政権と任那』勁草書房、1969 ISBN 4326200014)</ref>。この説に対しては、『日本書紀』を否定しておきながら、出雲神話、天孫降臨神話、神武天皇東征伝承などを歴史的事実と認め、そこから日本本土内の「分国」存在の結論を導き出しているのは自己矛盾の何物でもない等の批判がなされ、全く支持されなかった。[[1970年]]代に入り、それに同調する日本の研究者井上秀雄は「任那日本府」とは『日本書紀』が引用する『百済本紀』において見られる呼称であり、6世紀末の[[百済]]が[[高句麗]]・[[新羅]]に対抗するために倭国([[ヤマト王権]])を懐柔しようとして、『魏志』(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』)韓伝において朝鮮半島南部の諸国を意味していた「倭」と日本列島の倭人の政権とを結びつけて、ヤマト王権の勢力が早くから朝鮮半島南部に及んでいたかのような印象を与えているに過ぎない。実際の『百済本紀』の記述では、任那日本府とヤマト王権とは直接的には何の関係も持たないことが読み取れると主張した<ref group="注釈">(→井上2004 pp.106-107.)。論考は井上秀雄『任那日本府と倭』(東出版、1973)に詳しい</ref>。
 
[[朝鮮学会]]編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002年)では、[[西谷正]]は倭人系百済官僚が[[栄山江]]流域に存在したと主張し、[[山尾幸久]]は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を主張した<ref group="注釈">また、[[田中俊明 (朝鮮史)|田中俊明]]は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。</ref>。
 
[[高麗大学]]教授で日本古代史学者の[[金鉉球]]は、『[[日本書紀]]』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の[[歴史教科書]]では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は[[12世紀]]の『[[三国史記]]』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうした[[ダブルスタンダード]]ゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=[[鄭大均]]|authorlink=|date=1998-10|title=日本のイメージ|series=[[中公新書]] 1439|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121014399|1998}}p177</ref>。
 
== 各種史料 ==
=== 中国史料における任那 ===
[[File:Mimana Gwanggaeto Stele.JPG|thumb|100px|好太王碑 拓本部分]]
『[[日本書紀]]』([[720年]]成立)よりも古い記述を含む。
 
* 『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
* [[好太王碑|広開土王碑]]文([[414年]]建立) : [[永楽 (高句麗)|永楽]]10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
* 『[[宋書]]』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『[[南斉書]]』も併記を踏襲している。
* 『[[梁書]]』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
* [[525年]]前後の状況を記載した『[[職貢図|梁職貢図]]』百済条は、[[百済]]南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
* 『[[翰苑]]』([[660年]]成立)新羅条に「任那」が見え、その註([[649年]] - [[683年]]成立)に「[[新羅]]の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
* 『[[通典]]』([[801年]]成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『[[太平御覧]]』([[983年]]成立)、『[[冊府元亀]]』([[1013年]]成立)もほぼ同様に記述している。
 
なお、宋書倭国伝によると、[[451年]]に、[[宋 (南朝)|宋朝]]の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]は、倭王済([[允恭天皇]]に比定される)に「使持節都督倭・新羅・'''任那'''・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、[[478年]]に、宋朝の[[順帝 (南朝宋)|順帝]]は、倭王武([[雄略天皇]]に比定される)に「使持節都督倭・新羅・'''任那'''・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けたという。
 
=== 『日本書紀』における任那 ===
『日本書紀』([[720年]]成立)[[崇神天皇]]条から[[天武天皇]]条にかけて「任那」が多く登場する。
*崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
*応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済記』の引用である。
*雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
*顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
*継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
*宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
*欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年([[541年]])4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年([[562年]])の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、[[多羅国|多羅国(たら)]]、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。この10国は562年の任那滅亡に近い最末期の領域である。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求しており、従来日本(倭)に対し調を納めていた事実が書かれている。
 
;新羅による任那征服と推古朝の新羅征討
[[日本書紀]]によれば、[[飛鳥時代]]にも[[朝鮮半島]]への軍事行動が計画された。[[西暦]][[562年]]、'''任那'''[[任那日本府|日本府]]が[[新羅]]によって滅ばされた。これを回復するための「[[征討軍]]」が[[推古天皇|推古朝]]に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している<ref name="shoki" />。
 
[[推古]]8年(西暦[[600年]])2月で、倭国は任那を救援するために新羅へ出兵した<ref name="shoki" />。[[境部臣]](さかひべのおみ)が征討大将軍に任命され、副将軍は穂積臣であった<ref name="shoki">岩波文庫「日本書紀」四(1995年、2000年第七版)</ref>。五つの城が攻略され、新羅は降伏した<ref name="shoki" />。さらに、[[多多羅]](たたら)、[[素奈羅]](すなら)、[[弗知鬼]](ほちくい)、[[委陀]](わだ)、[[南迦羅]](ありひしのから)、[[阿羅々]](あらら)の六つの城が攻略された<ref name="shoki" />。[[難波吉士]]神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮日(なにわのきしいたび)を任那に派遣し<ref name="shoki" />、両国が倭国に[[朝貢]]を約させた<ref name="shoki" />。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した<ref name="shoki" />。翌[[推古]]9年([[601年]])3月には、[[大伴連囓于]](おほとものむらじくひ)を[[高句麗|高麗]](こま)に派遣し、[[坂本臣糠手]](さかもとのおみむらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた<ref name="shoki" />。
 
[[推古]]10年([[602年]])2月、[[聖徳太子]]の弟[[来目皇子]]が[[征新羅大将軍|新羅征討将軍]]として軍二万五千を授けられる<ref name="shoki" />。4月に軍を率いて[[筑紫国]]に至り、[[志摩郡 (福岡県)|島郡]]に屯営した<ref name="shoki" />。6月3日、百済より[[大伴連囓于]]と坂本臣糠手が帰国する<ref name="shoki" />。しかし、来目皇子が[[病気|病]]を得て新羅への進軍を延期とした。来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌[[推古]]11年([[603年]])2月4日、筑紫にて薨去<ref name="shoki" />。来目皇子は、[[周防国|周防]]の[[佐波郡 (山口県)|娑婆]](遺称地は[[山口県]][[防府市]]桑山)に[[殯]]し、[[土師猪手]]がこれを管掌した<ref name="shoki" />。
 
[[推古]]11年([[603年]])4月、来目皇子の兄[[当麻皇子|当摩皇子]](たぎまのみこ)が新羅征討将軍に任命される<ref name="shoki" />。[[推古]]11年([[603年]])7月3日、[[難波]]より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の[[舎人皇女]](欽明天皇の皇女)が赤石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた<ref name="shoki" />。
 
その後、[[大化]]2年(646年)2月まで任那は高麗・百済・新羅とともに倭国へ調を納めていたが、同年9月に[[高向博士黒麻呂]]([[高向玄理]])が新羅へ派遣され、[[質]](人質)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として[[武烈王|金春秋(後の武烈王)]]が来日している<ref>吉田1997 pp.101.</ref>。
 
=== その他の日本史料における任那 ===
*『肥前風土記』([[713年]]成立)松浦郡条に「任那」が見える。
*『新撰姓氏録』([[815年]]成立)は、任那に出自を持つ10氏とそれぞれの祖が記載されている。「任那」のほか「彌麻奈」、「三間名」、「御間名」と表記される。三間名公の記事には、御間城入彦天皇([[崇神天皇]])の「御間城」に因んだ国号だとする命名説話があり、吉田連の記事には同天皇の時に吉田氏([[孝昭天皇]]後裔)の祖・塩乗津彦命が任那鎮守として赴任したことが見え、これが日本府の起源とされる。
 
=== 朝鮮半島史料における任那 ===
朝鮮半島史料は編纂の際に呼称を原資料の記述から書き換える傾向がある。任那は次の2つの記載しかなく、最も早いものでも10世紀の成立である。
 
* 『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』([[924年]]成立):大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、ここでの任那は[[加羅#駕洛国(金官加羅)|金官加羅]]を指すとされている。
* 『[[三国史記]]』([[1145年]]成立):本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
 
== 政治問題化 ==
2015年4月、韓国の国会は、日本の歴史教科書に任那の記述があることを糾弾する「安倍政府の独島領有権侵奪と古代史歪曲に対する糾弾決議案」を採択した<ref>[http://japanese.joins.com/article/810/198810.html?servcode=A00&sectcode=A10 韓国国会、日本糾弾決議案採択…「歴史歪曲・領土侵奪は極めて遺憾」] 2015年4月10日、[[中央日報]]日本語版</ref>。
 
== 脚注 ==
===注釈===
{{reflist|group=注釈}}
=== 出典===
{{reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
*{{Citebook|和書|author=井上秀雄|authorlink=井上秀雄|year=1972|title=古代朝鮮|series=NHKブックス|publisher=日本放送出版協会}}
**{{Citebook|和書|author=井上秀雄|year=2004|month=10|title=古代朝鮮|series=講談社学術文庫|publisher=講談社|isbn=4-06-159678-0}}
*{{Cite journal|和書|author=権珠賢|authorlink=権珠賢|year=1998|month=2|title=「加耶」の概念とその範囲(上)|journal=國學院雑誌|volume=99|issue=2|pages=pp. 22-35|publisher=國學院大學綜合企画部}}
*{{Cite journal|和書|author=権珠賢|year=1998|month=3|title=「加耶」の概念とその範囲(下)|journal=國學院雑誌|volume=99|issue=3|pages=pp. 34-42|publisher=國學院大學綜合企画部}}
*{{Citebook|和書|author=田中俊明|authorlink=田中俊明|year=1992|month=8|title=大加耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った|publisher=吉川弘文館|isbn=4-642-08136-4}}
*{{Citebook|和書|editor=[[朝鮮学会]]編|year=2002|month=6|title=前方後円墳と古代日朝関係|publisher=同成社|isbn=4-88621-251-4}}
*{{Citebook|和書|author=都出比呂志|authorlink=都出比呂志|year=2005|month=9|title=前方後円墳と社会|publisher=塙書房|isbn=4-8273-1197-8}}
*{{Citebook|和書|author=森公章|authorlink=森公章|year=1998|month=6|title=「白村江」以後 国家危機と東アジア外交|series=講談社選書メチエ 132|publisher=講談社|isbn=4-06-258132-9}}
*{{Citebook|和書|author=吉田孝|authorlink=吉田孝|year=1997|month=6|title=日本の誕生|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430510-1}}
 
== 関連項目 ==
* [[任那日本府]]
* [[都怒我阿羅斯等]]
* [[倭・倭人関連の朝鮮文献]]
* [[伽耶]]
 
== 外部リンク ==
* [http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/siryo3.html 任那加羅 - Ne]
 
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