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その後、[[日中戦争]]の勃発に伴い、[[連隊長]]として再び召集されたが、[[南京攻略戦]]の際の[[1937年]]12月12日に、イギリス砲艦[[レディバード (砲艦)|レディバード号]]に被害を与え(レディバード号事件)、さらに日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するよう命令し、アメリカの砲艦[[パナイ (砲艦)|パナイ]]を撃沈し死傷者を出す([[パナイ号事件]])という責任を取って陸軍[[砲兵]][[大佐]]で退役した。
 
予備役中の1936年に[[大日本青年党]](のち[[大日本赤誠会]]に改称)を組織し[[ファシズム]]運動を展開、[[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]]が掲げる[[新体制運動]]にも積極的に協力した。[[1942年]]の[[翼賛選挙]]で[[衆議院議員]]に当選し、[[翼賛政治会]]総務に就任した(そのため、戦後[[公職追放]]となる<ref>『朝日新聞』1946年2月10日一面。</ref>)
 
[[極東国際軍事裁判]]で[[A級戦犯]]として起訴され、[[終身刑]]。仮釈放後も、獄中で「'''思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし'''」と詠んでいた様に、国家改造を志す野心は変わらず、[[1956年]]の[[第4回参議院議員通常選挙]][[全国区]]に、政党の公認や資金も無い状態で周囲が止めるのも聞かずに[[無所属]]で立候補し落選している。
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== 評伝 ==
* [[田々宮英太郎]] 『橋本欣五郎一代』 芙蓉書房出版 1982年
 
==脚注==
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== 参考文献 ==