「日欧文化比較」の版間の差分

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1562年に伝道のため日本に来たフロイスは北九州をはじめとして日本のいくつかの地方を遍歴し宣教とともに知見を蓄えていった<ref>{{harvnb|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|p=4}}。</ref>。1585年、[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]の指示により、「在日歴が長く日本通」とされたフロイスにより本書は執筆された<ref name="hazama2015_46" />。フロイスによる序文には「[[加津佐町|加津佐]] Canzusa において執筆、一五八五年六月一四日」とある<ref name="okada1993_13">{{harvnb|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|p=13}}。フロイスによる序文。</ref>。フロイスは筆まめ<ref name="okada1993_5">{{harvnb|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|p=5}}。</ref>というか、とかく微細なことまでも報告するので上司には辟易されたこともあるが<ref name="yoshida1993_56">{{harvnb|吉田|1993|p=56}}。</ref>、「日本の風俗、宗教、医学、書法、建築、芸術文化等の社会文化状況をきわめて具体的に記述した」と評されるものに仕上がった<ref name="ono2005_99">{{harvnb|小野|2005|p=99}}。</ref>。しかしながら記述が冗長すぎるとし放置されてしまった『[[フロイス日本史|日本史]]』<ref name="hazama2015_48">{{harvnb|狭間|2015|p=48}}。</ref>同様、ながらく日の目を見ることはなかった<ref name="okada1993_5" />。マカオの神学校において、新任の宣教師が日本文化を前もって学ぶために用いられたともされる<ref>{{Cite web |author=[[大濱徹也]] |url=https://www.nichibun-g.co.jp/magazine/history/028.html |title=ルイス・フロイスが見た日本 |publisher=[[日本文教出版]] |accessdate=2017-03-26}} </ref>。
 
再発見されたのは1946年、マドリードの歴史アカデミー([[:en:Real Academia de la Historia|en]])<ref>ヒストリアカデミア・デ・ラ・ヒストリア{{harv|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|p=5}}、王立史学士院{{harv|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|p=199}}、王立歴史アカデミア{{harv|内村|2015|p=206}}、史学研究院{{harv|狭間|2015|p=51}}などと表記される。</ref> においてであった<ref name="okada1993_5" />。発見者はヨゼフ・フランツ・シュッテ (Josef Franz Schütte) で、1955年にはポルトガル語とドイツ語を併記し注記を加えた書籍を“''Kulturgegensätze Europa-Japan''”と題して[[上智大学]]より刊行し<ref>{{harvnb|Fróis, Luís|岡田章雄|1993|pp=5-6}}。</ref>、以後の定本となっている<ref name="ono2005_99" />。1965年に、この翻刻版の定本を底本として日本語版が出版された<ref name="ono2005_99" />。この際に訳者の岡田章雄がシュッテ本のタイトルに従い『日欧文化比較』と邦題をつけた<ref name="hazama2015_51" />。邦題について、[[狭間芳樹]]は原題を訳すのであれば『'''日欧習俗相違大要'''』が適切としている<ref name="hazama2015_51" />。1991年には『ヨーロッパ文化と日本文化』と改題のうえ、[[岩波文庫]]版が出版された<ref name="hazama2015_51" /><ref name="okada" />。
 
=== 原本 ===