「ローマ帝国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m {{Reflist}}の文字がつぶれて見づらい
63行目:
|面積測定時期1 =[[紀元前25年|前25年]]<ref name="size">{{cite journal|journal=Social Science History |title=Size and Duration of Empires: Growth-Decline Curves, 600 B.C. to 600 A.D. |author=Rein Taagepera|volume=3 |issue=3/4 |year=1979 |pages=125 |url=http://links.jstor.org/sici?sici=0145-5532%281979%293%3A3%2F4%3C115%3ASADOEG%3E2.0.CO%3B2-H |doi=10.2307/1170959}}</ref><ref>John D. Durand, ''Historical Estimates of World Population: An Evaluation'', 1977, pp. 253-296.</ref>
|面積値1 =2,750,000
|面積測定時期2 =[[50年]]<ref name="size" />
|面積値2 =4,200,000
|面積測定時期3 =[[117年]]<ref name="size" />
|面積値3 =5,000,000
|面積測定時期4 =[[390年]]<ref name="size" />
|面積値4 =4,400,000
|人口測定時期1 =[[紀元前25年|前25年]]<ref>John D. Durand, ''Historical Estimates of World Population: An Evaluation'', 1977, pp. 253–296.</ref>
82行目:
|変遷年月日4 =[[395年]]
|変遷年月日5 =[[476年]]
|変遷5 =[[ゲルマン人]][[傭兵]][[オドアケル]]の反乱により[[西ローマ帝国]]が実質滅亡。( [[480年]]に完全に滅亡)
|変遷6 =[[オスマン帝国]]の攻撃により[[東ローマ帝国]]が[[コンスタンティノープルの陥落|滅亡]]
|変遷年月日6 =[[1453年]][[5月29日]]
214行目:
東ローマによる帝国の再建は何度か試みられ、実際に5世紀の[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]や12世紀の[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]の様に、アフリカやイタリア征服を試みた皇帝もいた。6世紀の[[ユスティニアヌス1世]]によるものは一定の成功を収め、地中海の広範な地帯が再びローマ帝国領となった。ユスティニアヌスは、ローマ法の集大成である[[ローマ法大全]]の編纂でも知られている。
 
ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7~87〜8世紀にかけ[[イスラム帝国]]や[[スラヴ人]]などの侵入により領土が大幅に縮小した。統治体制は再編を余儀なくされ、[[テマ]]と呼ばれる軍閥制が敷かれた。ラテン語が使用されていた帝国西方の喪失は公用語のギリシャ語化(7世紀)を促し、8世紀にはローマやラヴェンナを含む北イタリア管区を失い、また、西欧に対する影響力も低下した。一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行した。
 
9~109〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島とアナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に[[十字軍]]により首都コンスタンティノポリスを占領された。13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、[[オスマン帝国]]等に領土を侵食されていった。
 
=== 滅亡 ===
235行目:
{{See|ローマ皇帝一覧}}
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<div class="references-small"><references {{Reflist|group="注釈"/></div>}}
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
<div class="references-small">{{Reflist}}</div>
 
== 参考文献 ==