「信玄公旗掛松事件」の版間の差分

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前述したように中央本線の開設は、国が主体となり建設が行われたものである。そして開設の背景には[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争|日露]]の両戦を通じて、鉄道輸送の重要性を認識し、幹線鉄道の国有化を推進した[[軍部]]の思惑、要請が大きかったと言われている<ref>大村(2011)、pp.69-71</ref><ref>川井(1981)、p.246</ref>。
 
このように鉄道院時代の日本における鉄道の役割は、国家目的の遂行、しかも国防上の目的という考え方が背景にあり、一般の人々にとって鉄道は国のもの、「国は悪をなさず」という考え方が強かった。たとえば、[[1909年]](明治42年)、中央本線沿線の[[武蔵野市]](当時の[[東京府]][[北多摩郡]]武蔵野村)で蒸気機関車の火の粉による[[ボヤ]]が生じ、被害者が鉄道院に補償を求めたところ、鉄道院はこれを全く受け付けなかったという<ref>朝日新聞昭和49年4月4日朝刊による。川井(1981)、p.247</ref>。<!--出典がなく、また、「無過失責任」という前後の記述との整合性を欠く記述が含まれており、いったんコメントアウト→また、事故も頻発していたようで汽車をもじって「人ひ'''き車'''」と揶揄されるほど、被害も生じたというが、これらの賠償問題がどのようにして処理されていたのか記録が残されておらず、被害者の救済がどのように行われたのか不明であるが、今日で言う[[無過失責任]]に近い処理が行われたと考えられている。-->いずれにしても-->「国の権威を背景にした鉄道院」、「国は悪をなさず」という世間一般の鉄道に対する認識が、信玄公旗掛松事件の生じた背景に控えていたと言える<ref>川井(1981)、p.247</ref>。
 
== 裁判の経過 ==
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