「八十年戦争」の版間の差分

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1600年頃までに北部7州は[[ネーデルラント連邦共和国]]として実質的に独立を果たした。共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント連邦共和国は[[1602年]]、連合東インド会社([[オランダ東インド会社]])を設立してアジアに進出し、[[ポルトガル王国|ポルトガル]](1580年からスペインと[[同君連合]])との{{仮リンク|オランダ・ポルトガル戦争|en|Dutch–Portuguese War}}([[1602年]] - [[1663年]])で[[香辛料貿易]]を奪取して、世界の海に覇を唱えた。このため貿易の富が[[アムステルダム]]に流入して、[[17世紀]]の共和国は黄金時代を迎えることとなる。[[1609年]]にはスペインとの{{仮リンク|12年停戦協定|en|Twelve Years' Truce}}が結ばれた。
 
オランダの工業力はイギリスと熾烈な競争を展開した。完全な加工貿易国として、原料が自給できない欠点を補って余りあるオールマイティーな技術力をもっていた。船舶・風車が特に有名であるが、[[ユグノー]]資本を集中投下した[[マニュファクチュア]]は日本のそれがおよびもつかない水準であった。それは農工一体の染色業だった。オランダの土壌は耕作に不向きであったので、麻・[[ホップ]]・果実などが栽培された。園芸作物としてチューリップが育てられ、後に[[チューリップ・バブル]]を引き起こすまでにもてはやされた。他にも鮮やかな色のついた夥しい作物が育てられた。16-17世紀、オランダの染料は国際市場で無敵だった<ref>C. Singer et al., ''A History of Technology'', III, ''From the Renaissance to the Industrial Revolution, c1500–c1700'', Oxford: Clarendon Press, 1957, p.693.</ref>。1614年、イギリスの[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]は産業保護のため白布輸出を禁じたが、オランダはイギリス等で染色された布をボイコットした。ジェームズ1世は染色の羊毛まで輸出を禁じたが、3年以上も輸出額が2/3となってしまい、1617年に解禁せざるをえなくなった<ref>Barry E. Supple, ''Commercial Crisis and Change in England 1600-42'', Cambridge University Press, 1959, p.34.</ref>。オランダの毛織物染色技術は47%の付加価値でなおこれだけの競争力を維持したのである<ref>Charles Henry Wilson, ''England's Apprenticeship, 1603-1763'', London, 1965, p.71; C. H. Wilson, ''The Dutch Repbulic and the Civilization of the Seventeenth Century'', World University Library, London, 1968, p.29.</ref>。近代の[[IGファルベン]]につながる染色業のルーツであった。
 
[[ドルト会議]]([[1618年]] - [[1619年]])で[[レモンストラント派]]の意見が斥けられた。