「湯浅譲二」の版間の差分

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[[福島県]][[郡山市]]にて開業医の次男として生まれる。芸術愛好家だった父の影響で幼時より音楽に親しむ。[[福島県立安積高等学校|福島県立安積中学校]]を卒業したのち上京し、[[慶應義塾大学]][[医学部]]に進む。当時は外科医志望であり作曲は趣味として行うつもりだったが東京で日本の現代音楽の状況を知るうちに「このぐらいなら自分でもできる」と思うようになり[[1951年]]、「10年間は面倒みてやるから」との父親の合意のもとに医学部教養課程を中退して作曲の道に進む。若い頃、詩人・[[瀧口修造]]の下で組織された芸術家グループ・[[実験工房]]で[[武満徹]]らと共に活動し[[電子音楽]]や自作を含む現代音楽の演奏会の製作にかかわった。一方で古典的な作曲理論を身につけておく必要も痛感し、大学教養課程での音楽の担当であった評論家・[[村田武雄 (音楽評論家)|村田武雄]]の紹介で[[中田一次]]に短期間師事している。
 
アメリカの[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]で[[ブライアン・ファーニホゥ]]、[[ロジャー・レイノルズ]]らと共に作曲の教職に就いていた。
 
湯浅が自らの音楽を語る言葉として、次の文句が良く引き合いに出される。「私にとって音楽とは、[[音響]]エネルギー体の空間的・時間的推移である」。これはつまり音楽をその音響現象の中に見られるエネルギーの力学的運動として捉えることにより、その音楽の語り口(ナラティヴィティ)を見出そうというものである。このことによって湯浅はジャンルや様式、地域性などを超えたほとんどの音楽がこの言葉によって説明できるとしている。
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[[Category:紫綬褒章受章者]]
[[Category:旭日小綬章受章者]]
[[Category:慶應義塾大学出身の人物]]
[[Category:慶應義塾大学アート・センターの人物]]
[[Category:福島県出身の人物]]