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'''死六臣'''(しろくしん、{{Lang-ko|사육신}}、{{Lang-zh|死六臣}})とは、[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]によって王位を追われた[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]の復位を図ろうとして処刑された[[李氏朝鮮]]時代の6人の政治家を指す言葉。
 
一般的に死六臣は次の人物を指す。
'''死六臣'''(しろくしん)は、[[李氏朝鮮]]時代前期における6人の政治家
* [[成三問]](ソン・サンムン)
* [[朴彭年]](パク・ペンニョン)
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* [[兪応孚]](ユ・ウンブ)
* [[柳誠源]](ユ・ソンウォン)
である。
 
異説として、死六臣と共に連座して処刑された[[金文起]](キム・ムンキ)を兪応孚または柳誠源の代わりに数えることがある。
彼らは[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]によって王位を追われた[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]の復位を図るものの露見し、[[鞭打ち]]の[[拷問]]の後、[[凌遅刑]]([[ウシ|牛]]を用いた[[八つ裂きの刑]])で残酷に処刑された。しかし、後年忠臣として顕彰されている。
6人の数え方には異説もあり、兪応孚または柳誠源の代わりに
* [[金文起]](キム・ムンキ)が入ることもある。
 
== 端宗復位事件 ==
[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の長男にして世祖の兄である[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]は生来病弱ゆえ在位2年で早世し、その子である幼い端宗が1952年に王位を継いだ。まだ幼かった端宗の叔父であるを補佐した首陽大君(後の世祖で[[端宗の叔父)は1453年]]10月に端宗に従う重臣を殺害して権力を掌握し([[癸酉靖難]])その後、首陽大君は[[李瑜|錦城大君]]を配流し[[譲寧大君]](世宗の実兄)や[[権擥|權擥]]、[[韓明澮]]らの後押しにより[[1455年]]閏6月に端宗からに即したを禅譲させこれにより端宗は上王となった)、自らが世祖を名乗り王位に就いた
 
この頃、[[明]]で起きた[[奪門の変]]の影響で、端宗の上王が廃位され、魯山君に封じられたのちに[[庶民|庶人]]へ落とされた。これにより、錦城大君や世宗によって[[集賢殿]]に抜擢された学者・政治家であり、文宗から幼い端宗を補佐するよう遺命を受けていた成三問らは、端宗の復位を図って同志を募った。しかし世祖を殺害して復位を実現しようとする計画は成三問らと共に行動するはずであった[[金礩]]の裏切りと密告によって発覚し、関与した者たちは世祖に捕らえられた。かれ死六臣を含め、捕えられた者[[鞭打ち]]の[[拷問にも屈すること]]の後、[[凌遅刑]]([[ウシ|牛]]を用いた[[八つ裂きの刑]])どで処刑された。このとき処刑された者は成三問の父である成勝なども含め70余名に上る。
 
錦城大君、端宗もこの事件により[[賜死]]となり、[[薬殺刑|賜薬]]に処せられた。
 
== 死後の顕彰 ==
その後、[[朝鮮王朝]]で[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の時代より[[士林派]]が台頭し、名分論に基づいて[[戊午士禍|世祖の権力掌握が簒奪と見なされる([[戊午士禍]]ようになると、これに抗して忠義に殉じた臣下たちが顕彰されるようになり、端宗復位事件で処刑されたうちの主要な6人が「死六臣」として讃えられるようになった。[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の時代の[[1691年]]に、かれらの名誉も回復されて漢江の南・鷺梁津に愍節書院が建てられた(現・[[銅雀区]]の死六臣公園)。
 
かれらは忠節を尽くして非命に倒れた悲劇の主人公として人気が高く、現代でも[[大韓民国|韓国]]のテレビの時代劇ドラマの題材などになることも決して少なくない。
 
また、世祖の即位を認めず官職を辞してその後も一切官職につかなかった「[[生六臣]]」(せいろくしん)も、死六臣と一対の忠臣たちとして顕彰されている。
 
2007年に死六臣を題材としたテレビドラマ(日本語題・[[死六臣 (テレビドラマ)|死六臣]])が[[大韓民国]]で製作・放映された。
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== 関連項目 ==
*[[王と妃]]
*[[王女の男]]
 
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{{DEFAULTSORT:しろくしん}}
[[Category:李氏朝鮮の文臣|*]]
[[Category:朝鮮の歴史]]
[[Category:名数6]]