「甲申政変」の版間の差分

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# 内閣を廃し、税制を改め、[[宦官]]の制を廃すること
# 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせること
のほか、[[門閥]]廃止、還穀廃止、財政官庁の戸曹への一元化、[[巡査]]の設置、[[近衛隊]]の設置、[[大臣]]・参賛会議による[[政令]]の議定執行など、新制度の導入と旧弊一新の改革を盛り込んだ14項目の政治綱領を作成、6日、これを発表した<ref name=unno61/><ref name=kasuya232/><ref name=o121/>。金玉均の『[[甲申日録]]』に記載された新政綱14か条から、その[[変法]]的性格を読み取ることができる<ref name=kang233>[[#姜|姜(2006)pp.233-236]]</ref>。これは、少数からなる政府に建言を集中させて[[租税]]・財政・軍事・[[警察]]など諸点において近代的改革を実施し、従来の宗属関係を廃棄することを希求したものであった<ref name=unno61/><ref name=kasuya232/><ref name=o121/>。
 
== 三日天下 ==
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開化派のクーデタに対し、閔氏側の右議政[[沈舜沢]]は清国軍の出動と国王・閔妃の救出を要請した<ref name=kasuya232/>。清国軍は当初出動をひかえていたが、これは、高宗が日本公使の保護を命じていたことと、日清両軍の衝突による混乱を避けるためであったものの、事態の進展はそれを許さなかった<ref name=unno61/>。清国軍を統括する[[呉兆有]]は[[袁世凱]]らと協議した結果、12月6日、兵を率いて昌徳宮に入ることをきめた<ref name=unno61/>。王宮護衛の職にあった政府軍兵士のなかにも清国軍に合流する者も少なくなかった<ref name=unno61/>。午後3時前後に銃撃戦が始まった。広大な昌徳宮を防衛するにはあまりにも少数の日本軍は、多勢に無勢の状態で戦いらしい戦いもできずに王宮の一隅に追い込まれた<ref name=unno61/>。包囲の環がせばめられ、国王と王妃は逃げまどい、ついに竹添は日本軍撤収を命じた<ref name=unno61/>。国王を奉じて避難するという金玉均らの申し出は国王によって拒否された<ref name=unno61/>。竹添公使と日本軍は昌徳宮の裏門から脱出して午後7時30分ころに漢城の校洞にある日本公使館に戻った<ref name=unno61/>。朴泳孝・金玉均ら9人も行動をともにしたが、洪英植や朴泳孝は国王にしたがって王宮に残り、のちに清国兵に殺害された<ref name=unno61/>。
 
竹添の公使館帰着前から漢城は大混乱に陥り、日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民29名は暴徒化した軍民によって虐殺された<ref name=unno61/>。婦女子は凌辱を受け、そのありさまは、まるで[[1937年]](昭和12年)7月の[[通州事件]]のようであったという<ref>[[#拳骨|拳骨(2013)]]</ref>。竹添も居留民保護の務めを充分に負わなかった<ref name=unno61/>。結局、竹添は7日午後、この年の7月に新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、[[西大門]]を抜けて[[麻浦区|麻浦]]から[[漢江]]をくだって[[仁川府]]に向かった<ref name=unno61/。、一行が仁川領事館に着いたのは翌8日の朝であった<ref name=unno61/>。一行は停泊中の千歳丸に収容され、[[長崎]]へと向かうこととなったが、クーデタを失敗した朴泳孝・金玉均らの同行を竹添は露骨に嫌がった<ref name=unno61/>。千歳丸の船長[[辻覚三郎]]がここで義侠心を発揮し、朴・金らはようやくひそかに同行できたのであった。竹添は、クーデタと自分のかかわりが明らかになることを怖れた<ref name=unno61/>。結局であところ、新政権を守るための防衛対策の不備が命取りになったのである<ref name=unno61kang233/>。
 
朝鮮では親清派の守旧派が臨時政権を樹立した。開化派人士や朴・金ら亡命者たちの家族も数多く朝鮮に残った。彼らは「[[族誅]]」(3親等までの近親者が残忍な方法で処刑すること)によって殺害されるなど、ほとんどが悲惨な結末をたどった。
 
クーデタの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、そのうちの徐光範、徐載弼らはアメリカに渡った<ref name=kang233/>。亡命した金玉均は日本各地を転々としたが、日本での再起計画絶望し、清国の北洋大臣[[上海李鴻章]]に渡り、を説得するため[[1894年]]([[明治]]27年)3月、[[上海]]に渡った<ref name=kang233/>。しかし、[[3月28日]]、朝鮮国王の放った刺客[[洪鐘宇]](ホン・ジョンウ)によって暗殺された<ref name=unno61/><ref name=kang233/>。44歳の若さであった<ref name=kang233/>。その遺体は[[朝鮮半島]]に移送された後に[[凌遅刑]]に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。金玉均の妻子は、甲申政変の失敗から10年間生死不明で行方知らずとなったのち、[[1894年]](明治27年)12月[[忠清道]][[沃川郡|沃川]]近傍で当時[[東学党の乱]]([[甲午農民戦争]])を鎮圧中の日本軍が偶然発見して保護したものの、その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。
 
== 事後処理 ==
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* {{Cite book|和書|author=[[呉善花]]|year=2000|month=1|title=韓国併合への道|series=[[文春新書]]|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-660086-9|ref=呉}}
* {{Cite book|和書|author=[[糟谷憲一]]|editor=[[武田幸男]]編集|year=2000|month=8|chapter=朝鮮近代社会の形成と展開|title=朝鮮史|series=世界各国史2|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-634-41320-5|ref=糟谷}}
* {{Cite book|和書|author=[[姜在彦]]|editor=|year=2006|month=9|chapter=|title=歴史物語 朝鮮半島|series=|publisher=[[朝日新聞出版]]|isbn=978-4-02-259906-3|ref=姜}}
* {{Cite book|和書|author=[[拳骨拓史]]|year=2013|month=6|title=「反日思想」歴史の真実|series=|publisher=扶桑社|isbn=4594068200|ref=拳骨}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木克]]|year=1992|month=11|title=日本近代の出発|series=集英社版日本の歴史17|publisher=集英社|isbn=4-08-195017-2|ref=佐々木}}