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26歳にして家督を継いだ後は用人、大番頭、寺社奉行など藩の要職を歴任。武芸に優れ、[[儒学]]を深く修めるとともに、俳諧は[[各務支考]]の一門である[[武藤巴雀]]、[[太田巴静]]らに師事、若い頃から俳人としても知られ、俳諧では、句よりもむしろ俳文のほうが優れ、俳文の大成者といわれる多芸多才の人物であったという。同じ尾張藩士で絵師として知られた[[内藤東甫]]とは[[俳画]]で度々合作しているほか、東甫による也有の肖像画なども残る<ref>{{Cite web|url=http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/82036/1 |title=横井也有画像 |publisher=文化遺産オンライン |accessdate=2015-05-18}}</ref>。
 
[[宝暦]]4年([[1754年]])、53歳にして病を理由に隠居した後は、前津(現在の[[中区 (名古屋市)|中区]][[上前津1]]一丁目)の草庵・知雨亭に移り住み、天明3年(1783年)に82歳で没するまで、俳文、[[漢詩]]、[[和歌]]、[[狂歌]]、[[茶道]]などに親しむ風流人として暮らした。
 
== 横井也有と大田南畝 ==