「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

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ヘンリー5世は全ての内政問題に直接関与し、そして次第に自身の影響力を高めていった。また、その即位当初から自らをイングランドという連合国家の長と位置付け、過去の国内対立を水に流す方針を明確にした。
 
まず父と対立したリチャード2世を再度丁重に埋葬し、リチャード2世が在位していた間の[[推定相続人]]であるマーチ伯{{仮リンク|[[エドマンド・モーティマー (第5代マーチ伯)|en|Edmund Mortimer, 5th Earl of March|label=エドマンド・モーティマー}}]]をお気に入りとして手元に置き、さらには爵位・領土を没収されて苦しんでいた貴族たちには爵位・領土を順次回復していった。ホットスパーの遺児[[ヘンリー・パーシー (第2代ノーサンバランド伯)|ヘンリー・パーシー]]も[[ノーサンバランド伯]]を継承した。
 
ヘンリー5世にとって最大の内政課題は、当時異端として迫害されていた[[ロラード派]]の不満分子に対する対処であった。[[1414年]]1月に[[ジョン・オールドカースル]]の反乱を未然に防いだヘンリー5世は内政基盤を堅固なものとした。[[1415年]]6月に{{仮リンク|サウサンプトンの陰謀|en|Southampton Plot|label=サウサンプトンの陰謀事件}}<ref group="注">'''サウサンプトンの陰謀事件''':[[ライオネル・オブ・アントワープ]]の曾孫に当たるマーチ伯を王位につけようと、義兄の[[ケンブリッジ伯]][[リチャード・オブ・コニスバラ]]らが企てたが、当のマーチ伯がヘンリー5世に通報したため失敗に終わった事件。ロイル、P126 - P127。</ref>を除いてはこれ以降の彼の統治期に大きな内政問題は発生していない。