「バッファロー・バイソンズ (1879-1885年)」の版間の差分

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[[1880年]]は加入選手の数を増やしたが逆にチームの成績は低迷した。この中には後に投手としてシーズン59勝の記録を作った[[チャールズ・ラドボーン]]もいたが、当時[[野手]]だったラドボーンはわずか6試合出場しただけで放出されてしまった。なお同年8月20日には、ガルヴィンが[[ウースター・ルビーレッグス]]を相手に[[ノーヒットノーラン|無安打試合]]を達成した。この年は成績不振から財政が不安定だったが、チームは新たに資本を注入され破綻を免れた。
 
[[1881年]]、バイソンズは[[選手兼任監督|監督兼任選手]]として[[ジム・オルーク (野球)|ジム・オルーク]]を招聘、[[ダン・ブローザース]]、デビー・フォース、[[ディーコン・ホワイト]]らを加入させるなど大きな補強を行った。ブローザースはこの年リーグ最多の8本の[[本塁打]]を放つなど期待に応え、チームもこの年と翌年に再びリーグ3位まで躍進した。なお[[1882年]]には、ブローザースがリーグ[[首位打者]]となり、またこの年[[アトランタ・ブレーブス|ボストン・レッドキャップス]]から加入したカリー・フォリーが、5月25日の試合で[[満塁]]本塁打を含むメジャーリーグ史上初の[[サイクル安打]]を達成した。
 
ガルヴィンは続く1883年と1884年の2年続けて46勝を挙げるという記録を作り、また打の中心だったブローザースは1883年に2年連続の首位打者となるなど、チームを牽引した。チームはより多くの観客を動員するために、新しい球場「オリンピック・パーク」の建設に着手、1884年から本拠地とししたが、選手の高い年俸の負担は依然として重かった。監督を兼任していたオルークは、1884年を最後にチームを離れ、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ|ニューヨーク・ゴッサムズ]]に移っていった。