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'''川 良則'''(かわて よしのり、[[天文 (元号)|天文]]元年([[1532年]])- [[慶長]]6年([[1601年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[今川氏]]・[[武田氏]]・[[徳川氏]]家臣。後に[[井伊氏]]の[[家老]]を務めた。通称は主水。家名は河手とも書かれる。
 
== 概要 ==
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良則は今川氏滅亡後は武田氏に仕え、[[山県昌景]]配下として名を挙げた。
 
武田氏滅亡後は徳川氏家臣となり、[[天正]]10年([[1582年]])に[[徳川家康]]の命で[[井伊直政]]の姉の[[高瀬姫]]を娶り、直政に仕える。井伊家中では一門筆頭として、筆頭家老格の[[木俣守勝]]よりも席次は上であった。知行は2500石で、後に4000石となる。[[関ヶ原の戦い]]では[[高崎城]]城代として留守を守った。[[松平康安]]の子の川良列を養子として跡を継がせたが、[[元和]]元年([[1615年]])に[[大坂夏の陣]]の[[八尾・若江の戦い|若江の戦い]]で良列は戦死し、その遺児の川良富も[[寛永]]5年([[1628年]])に若年で早世したため、同家は無嗣断絶となった。
 
幕末の[[嘉永]]6年([[1853年]])に[[井伊直弼]]の命で、[[新野親良]]の子の河手良貞により川(河)家は再興された。
 
== 参考文献 ==