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'''オルドーニョ2世''' (Ordoño II de León、[[871年]]頃 - [[924年]]6月)は、[[ガリシア王国|ガリシア]]王(在位:[[910年]] - 924年)、[[レオン王国|レオン]]王(在位:[[914年]] - 924年)。彼は自分の管理化に置かれたレオン王国の領土のみを従属させ、当時[[イベリア半島]]の大部分を征服していた[[イスラム教徒]]との戦いに首尾よく戦った、精力的で積極的な統治者であった<ref>西川、p. 57</ref>。彼の治世は、戦術的かつスムーズに、[[アストゥリアス王国]]から、既に王家の本拠となっていた[[レオン (スペイン)|レオン]]を首都とするレオン王国への移行を行ったことで特筆される。
 
==生涯==
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ガルシア1世は弟のオルドーニョと距離を保ち、対立関係にあった。914年、子のないガルシア1世が死ぬと、オルドーニョがレオン王位についた。
 
オルドーニョはその後、2つの前線において先祖が行ってきた[[キリスト教]]政体の拡大を続けた。王国の南西部で、彼は[[メリダ (スペイン)|メリダ]]や[[エヴォラ]]を略奪し、彼が退去した後の土地を地元のイスラム教徒総督に購入するよう強いた。東部においては、[[パンプローナ王国|パンプローナ]]王サンチョ1世と同盟し、[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の太守[[アブド・アッラフマーン3世]]と対抗した。917年、[[ムーア人]]たちはサン・エステバン・デ・ゴルマスの戦いで敗走した<ref name=N58>西川、p. 58</ref>。翌年にバヌ・カシー家から[[アルネード]]と[[カラオーラ]]を奪った。アブド・アル・ラフマーン3世の対応は厳しかった。920年に彼は[[エル・ブルゴ・デ・オスマ|オスマ]]と[[サン・エステバン・デ・ゴルマス]]奪還のため軍を進軍させた。彼は[[ナバラ王国|ナバーラ]]領内を横断し、[[バルデフンケーラの戦い]]でキリスト教徒軍を破り、[[トゥイ (スペイン)|トゥイ]]と[[サラマンカ]]の[[司教]]を逮捕した。パンプローナ王国そのものを粉砕しようとしたにもかかわらず、彼は莫大な戦利品に対処しようとしたのである。
 
サンチョ1世の要請でやってきたオルドーニョは、カスティーリャの伯爵たちが要請に応じず現れなかったことが敗退の原因であるとした。彼はテハーレスにカスティーリャの伯爵たちを集めさせ、彼らを殺害した。キリスト教軍は即時に反撃し、[[ラ・リオハ]]を占領、ナバーラに[[ナヘラ]]と[[ビゲーラ]]を併合した。
 
924年、サモラからレオンに戻る途中で死去した<ref name=N58 />。
オルドーニョの領土はたびたびアブド・アル・ラフマーン3世軍の襲撃を受けた。彼はレオンにおいて反乱を扇動しようとするカスティーリャ貴族と対峙していた。
 
==子女==
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923年、パンプローナ王女サンチャ(パンプローナ王サンチョ・ガルセス1世の子)と再婚したが、2人の間に子供はなかった。サンチャは王と死別後、アラバ伯アルバロ・エラメリスと再婚。再び死別後、カスティーリャ伯[[フェルナン・ゴンサレス]]と再々婚した。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 西川和子 『スペイン レコンキスタ時代の王たち』 彩流社、2016年
 
{{先代次代|[[ガリシア王国|ガリシア王]]|910年 - 914年<br />レオン王国に従属|[[アルフォンソ3世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ3世]]|以降レオン王国に併合}}