「フランシス・オズボーン (第5代リーズ公爵)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m {{Reflist}}の文字がつぶれて見づらい
1行目:
{{政治家
|人名 = 第5代リーズ公爵<br />フランシス・オズボーン
|各国語表記 = Francis Osborne<br />5th Duke of Leeds
|画像 = Francis Osborne, 5th Duke of Leeds by Benjamin West.jpg
|画像説明 = [[ベンジャミン・ウエスト]]画のリーズ公
15行目:
|称号・勲章 = 第5代[[リーズ公爵]]、[[ガーター勲章]]ナイト(KG)、[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)
|親族(政治家) =
|配偶者 = (1){{仮リンク|アメリア・オズボーン (カーマーゼン侯爵夫人)|label=アメリア|en|Amelia Osborne, Marchioness of Carmarthen}}<br />キャサリン
|サイン =
|ウェブサイト =
26行目:
|国旗2 = GBR1606
|職名2 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
|選挙区2= {{仮リンク|アイ選挙区|en|Eye (UK Parliament constituency)}}<br />{{仮リンク|ヘルストン選挙区|en|Helston (UK Parliament constituency)}}
|就任日2 = [[1774年]] <br />[[1774年]]
|退任日2 = [[1775年]]
|国旗3 = GBR1606
35行目:
}}
 
第5代[[リーズ公爵]]'''フランシス・ゴドルフィン・オズボーン'''({{lang-en|'''Francis Godolphin Osborne, 5th Duke of Leeds'''}}, {{Post-nominals|post-noms=[[ガーター勲章|KG]], [[枢密院 (イギリス)|PC]]}}、 [[1751年]][[1月29日]] - [[1799年]][[1月31日]])は、[[イギリス]]の政治家、貴族。
 
[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]内閣で[[外務大臣 (イギリス)|外務大臣]](在職:[[1783年]] - [[1791年]])を務めたことで知られる。爵位を継承する[[1789年]]まではカーマーゼン侯爵 (Marquess of Carmarthen) の[[儀礼称号]]で称された。
45行目:
[[ウェストミンスター・スクール]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]へ進学。
 
1774年に{{仮リンク|アイ選挙区|en|Eye (UK Parliament constituency)}}、1774年から1775年にかけて{{仮リンク|ヘルストン選挙区|en|Helston (UK Parliament constituency)}}から選出されて[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となる。1776年5月15日に[[繰上勅書|繰上貴族院招集令状]]によって父の{{仮リンク|オズボーン男爵|en|Baron Osborne<!-- リダイレクト先の「[[:en:Duke of Leeds]]」は、[[:ja:リーズ公爵]] とリンク -->}}位の資格で[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員となった<ref name="CP DL" />。
 
1776年から77年にかけて{{仮リンク|寝室侍従長|en|Lord of the Bedchamber}}を務めた。1777年に[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)に列するとともに[[シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ|シャーロット王妃]]の{{仮リンク|イギリス王室配偶者の宮内長官|label=王妃宮内長官|en|List of Lords Chamberlain to British royal consorts}}となり、[[1780年]]まで務めた。また1778年から1780年と1782年から1799年にかけて{{仮リンク|ヨークシャーの東リディング知事|en|Lord Lieutenant of the East Riding of Yorkshire}} を務めた<ref name="CP DL" />。
 
[[1783年]]から[[1791年]]にかけて[[ウィリアム・ピット (小ピット)|小ピット]]内閣の外務大臣を務める<ref name="CP DL" />。彼が外相に就任した頃、問題となっていたのはオランダだった。当時オランダは[[アメリカ独立戦争]]の余波で親英的なオランダ総督[[ウィレム5世 (オラニエ公)|ウィレム5世]]派とアメリカ独立を支持する親仏的な愛国派に分裂していた。イギリスは[[1784年]]に第四次[[英蘭戦争]]に勝利して愛国派を一時的に打倒することに成功したが、その後再び愛国派の機運が高まって愛国派に政権を握られた。フランスは東インドでイギリスに対して優位に立つべく、愛国派を支援することでオランダ東インド会社を有するオランダへの影響力を拡大させようと図っていた。これを危惧したカーマーゼン侯は[[1784年]]に外交官[[ジェイムズ・ハリス (初代マームズベリー伯爵)|ジェイムズ・ハリス]]をオランダ全権公使に任じ、ハリスを通じて総督派を支援して愛国派の封じ込めを図った。最終的にはプロイセン軍が出動して愛国派を鎮圧したため、1788年4月にはオランダ・プロイセンと同盟を結ぶことができた{{sfn|坂井秀夫|1982| p=71-112}}。
 
外相在任中の1789年3月に父の死により第5代リーズ公爵位を継承した<ref name="CP DL" />。
 
1787年に勃発した[[露土戦争 (1787年-1791年)|露土戦争]]をめぐっては、当初不干渉の立場をとったが、1790年末から1791年初頭にかけて、ロシアにインドへの道を圧迫されることを恐れ、干渉政策に切り替えた。もしロシアが現状維持に応じないなら対露開戦も辞さないという立場をとった。ピットも同様の考えだったので、ロシアへの最後通牒の起草を行い、1791年3月の閣議に提出した。しかし議会では[[チャールズ・ジェームズ・フォックス|フォックス]]議員らが対露軍事費増額予算案に激しく反発したことで対露開戦反対の機運が高まった。これを受けてピットは対露開戦不可能と判断してロシアに最後通牒を出すことを中止した。しかしリーズ公は最後通牒取り消しに反対したため、1791年4月11日をもって外相を辞任することになった{{sfn|坂井秀夫|1982| p=127-131}}。
 
1799年1月31日に死去した<ref name="CP DL" />。爵位は長男{{仮リンク|ジョージ・オズボーン (第6代リーズ公爵)|label=ジョージ・オズボーン|en|George Osborne, 6th Duke of Leeds}}が継承した。
 
== 栄典 ==
=== 爵位/準男爵位 ===
[[1776年]][[5月15日]]に{{仮リンク|貴族院繰上招集令状|en|writ in acceleration}}によって以下の父の爵位を使用して貴族院に出席<ref name="CP DL" />。
:*ヨーク州におけるキヴァートンの'''第5代オズボーン男爵''' <small>(5th Baron Osborne, of Kiveton in the County of York)</small>
::(1673年8月15日創設イングランド貴族爵位)
 
[[1789年]][[3月23日]]に死去した父より以下の爵位および準男爵位を継承<ref name="CP DL" /><ref name="thepeerage.com" />。
:*'''第5代[[リーズ公爵]]''' <small>(5th Duke of Leeds)</small>
::([[1694年]][[3月20日]]創設[[イングランド貴族]]爵位)
78行目:
 
=== 勲章 ===
*1790年、[[ガーター勲章|ガーター騎士団(勲章)]]ナイト(KG)<ref name="CP DL" />
 
== 家族 ==
[[1773年]]に第4代{{仮リンク|ホルダーネス伯爵|en|Earl of Holderness}}{{仮リンク|ロバート・ダーシー (第4代ホルダーネス伯爵)|label=ロバート・ダーシー|en|Robert Darcy, 4th Earl of Holderness}}の娘{{仮リンク|アメリア・オズボーン (カーマーゼン侯爵夫人)|label=アメリア|en|Amelia Osborne, Marchioness of Carmarthen}}と結婚。彼女との間に以下の3子を儲ける<ref name="CP DL" /><ref name="thepeerage.com" />。
*長男{{仮リンク|ジョージ・オズボーン (第6代リーズ公爵)|label=ジョージ・ウィリアム・フレデリック・オズボーン|en|George Osborne, 6th Duke of Leeds}} (1775–1838) : 第6代リーズ公爵位を継承
*長女メアリー・ヘンリエッタ・ジュリアナ・オズボーン (1776-1862) ; 第2代[[チチェスター伯爵]][[トマス・ペラム (第2代チチェスター伯爵)|トマス・ペラム]]と結婚
*次男{{仮リンク|フランシス・オズボーン (初代ゴドルフィン男爵)|label=フランシス・ゴドルフィン・オズボーン|en|Francis Osborne, 1st Baron Godolphin}} (1777–1850) : 初代{{仮リンク|ゴドルフィン男爵|en|Baron Godolphin}}に叙される
 
[[1779年]]にアメリアと離婚し、[[1788年]]にキャサリン・アンギッシュと再婚。彼女との間に以下の2子を儲ける<ref name="CP DL" /><ref name="thepeerage.com" />。
*三男シドニー・ゴドルフィン・オズボーン (1789-1861)
*次女キャサリン・アン・サラ・オズボーン (1791-1878) : ジョージ・ホワイト=メルヴィルと結婚
92行目:
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{reflistReflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
{{Reflist|1}}
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div>
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|dateyear=1982年(昭和57年)|title=イギリス外交の源流 小ピットの体制像|publisher=[[創文社]]|asin=B000J7I54W|ref=harv}}
 
==外部リンク==
105行目:
{{s-bef| before = [[リチャード・バートン・フィリップソン]] <br /> [[ウィリアム・コーンウォリス]]}}
{{s-ttl| title = {{仮リンク|アイ選挙区|en|Eye (UK Parliament constituency)}}選出[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員
| years = {{仮リンク|1774年イギリス総選挙|label=1774年|en|British general election, 1774}}<br /><small>同一選挙区同時当選者<br />[[リチャード・バートン・フィリップソン]]</small>}}
{{s-aft| after = [[リチャード・バートン・フィリップソン]] <br /> {{仮リンク|ジョン・シンジョン (1793年没)|label=ジョン・シンジョン|en|John St John (died 1793)}}}}
 
{{s-bef| before = {{仮リンク|ウィリアム・イヴェリン (英国陸軍将校)|label=ウィリアム・イヴェリン|en|William Evelyn (British Army officer)}}<br /> {{仮リンク|ジェイムズ・ハミルトン (第2代クランブラシル伯爵)|label=第2代クランブラシル伯爵|en|James Hamilton, 2nd Earl of Clanbrassil|}}}}
{{s-ttl| title = {{仮リンク|ヘルストン選挙区|en|Helston (UK Parliament constituency)}}選出庶民院議員
| years = {{仮リンク|1774年イギリス総選挙|label=1774年|en|British general election, 1774}} – 1775年<br />[[フランシス・オーウェン]] }}
{{s-aft| after = {{仮リンク|フランシス・コケイン・カスト|en|Francis Cockayne Cust}} <br /> [[フィリップ・ヨーク (庶民院議員)|フィリップ・ヨーク]]}}
{{s-court}}
124行目:
{{s-hon}}
{{s-break}}
{{s-bef| before = {{仮リンク|ヘンリー・イングラム (第7代アーバイン子爵)|label=第7代アーバイン子爵|en|Henry Ingram, 7th Viscount of Irvine}}<br /><small>(最後の就任者)</small>}}
{{s-ttl | title={{仮リンク|ヨークシャーの東リディング知事|en|Lord Lieutenant of the East Riding of Yorkshire}} | years=1778年–1780年}}
{{s-aft | after=[[フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)|第5代カーライル伯爵]]}}
{{succession box | title=ヨークシャーの東リディング知事 | years=1782–1799 | before=[[フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)|第5代カーライル伯爵]] | after=[[フレデリック・ハワード (第5代カーライル伯爵)|第5代カーライル伯爵]]}}
{{s-break}}
{{s-bef| before = [[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯爵)|第2代ロッキンガム侯爵]]<br /><small>(最後の就任者)</small>}}
{{s-ttl | title={{仮リンク|ヨークシャー海軍副提督|en|Vice-Admiral of Yorkshire}} | years=1795年–1799年}}
{{s-aft | after=[[ヘンリー・フィップス (初代マルグレイヴ伯爵)|初代マルグレイヴ男爵]]<br /><small>(次の在任者)</small>}}
{{s-break}}
{{succession box | title=[[シリー諸島]]総督 | years=1785年−1799年| before= {{仮リンク|トマス・オズボーン (第4代リーズ公爵)|label=第4代リーズ公爵|en|Thomas Osborne, 4th Duke of Leeds}} | after={{仮リンク|ジョージ・オズボーン (第6代リーズ公爵)|label=第6代リーズ公爵|en|George Osborne, 6th Duke of Leeds}}}}