「エイサ・ブレイナード」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
40行目:
[[1860年]]に当時[[ブルックリン区|ブルックリン]]の強豪チームだったエクセルシオール・クラブに加入。加入当初はチームメイトの[[ジム・クレイトン]]が投手をつとめることが多く、ブレイナードは専ら[[外野手]]や[[二塁手]]として試合に出ていたが、[[1862年]]のクレイトンの突然の死に伴い、クラブの投手をブレイナードが務めるようになった。[[1866年]]の成績は20戦して13勝であった。[[1867年]]にワシントンの[[ワシントン・ナショナルズ (1872年)|ナショナル・クラブ]]のアメリカ西部巡業に同行したのち、ブレイナードはシンシナティに移る。
 
[[1868年]]に[[シンシナティ・レッドストッキングス]]に加入し、チームがプロ化した[[1869年]]には[[年俸]]1,200ドルの契約を結んでプロの選手となった。レッドストッキングスは他にプロチームがなかったためアマチュアチームを相手に全米各地を転戦した。チームは1869年に全69試合(非公式)を戦い、ブレイナードは65勝を上げた(勝利数には諸説あり)。この活躍から、良い投手を「エイサのようだ」と形容されるようになり、いつしかスポーツなどで切り札となる人物を、ブレイナードのニックネーム「エイサ(Asa)」からもじって「'''[[エース]](Ace)'''」と呼ばれるようになったとする説がある<ref>それ以前に、英語圏における[[トランプ]]カードの「A(エース)」には「第一の」「高貴な」「高品質、特上の」という意味がある。</ref>
 
その後、[[1871年]]にプロ野球リーグ・[[全米プロ野球選手協会|ナショナル・アソシエーション]]が発足。ブレイナードはナショナル・アソシエーションで、1871年から引退する[[1874年]]までの4年間に、24勝53敗、[[防御率]]4.84、投球回数699.2回の成績を収めた。当時としては珍しく30代になってもプレーし続けていた。[[1888年]][[12月29日]]に、[[肺炎]]のため[[コロラド州]][[デンバー]]にて死去。