「経 (仏教)」の版間の差分

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原始仏典にはパーリ五部および漢訳の[[阿含経]]典群があり、その一部は釈尊の言葉を比較的忠実に伝えているといわれる。
 
大乗仏教の代表的な経典としては、[[般若経]][[維摩経]][[涅槃経]][[華厳経]][[法華三部経]][[浄土三部経]][[金剛頂経]]などが挙げられる。大乗仏典は西暦紀元前後以降、大乗仏教教団によって[[サンスクリット]]語で編纂された。歴史上の釈尊の説ではないとする[[大乗非仏説]]もあるが、そのため抽象化された非人間的存在としての[[ブッダ]]の説すなわち仏説であるとしている。般若経典群、法華経華厳経その他がこれに含まれる。
 
言語的には、[[パーリ語]]・サンスクリット語などのインドのものを初めとして、[[中国語|漢語]]、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[満州語]]のものがあり、[[西夏語]]のものも一部現存する。漢語やパーリ語から日本語に訳したものもこれに準じる。
中国における'''経典'''の漢訳事業は[[2世紀]]後半から始まり、[[11世紀]]末までほぼ間断なく継続された。漢訳事業の進行に伴い、訳経の収集や分類、経典の真偽の判別が必要となり、[[4世紀]]末には[[釈道安]]によって最初の[[経録]]である『''綜理衆経目録''』(亡佚)が、[[6世紀]]初めには僧祐によって『''[[出三蔵記集]]''』が作成された。これらの衆経ないし三蔵を、[[北朝 (中国)|北朝]]の[[北魏]]で「'''一切経'''」と呼び、[[南朝 (中国)|南朝]]の[[梁 (南朝)|梁]]で「'''大蔵経'''」と呼んだといい、[[隋]]・[[唐]]初に及んで両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。
 
隋・唐時代にも[[道宣]]の『''[[大唐内典録]]''』等の多くの経録が編纂されたが、後代に影響を与えたのは[[730年]](開元18)に完成した智昇撰『''[[開元釈教録]]''』20巻である。ここでは、[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]以来の経典分類法を踏襲して大乗の三蔵と小乗の三蔵および聖賢集伝とに三大別し、そのうち大乗経典を[[般若経|般若]][[宝積経|宝積]][[大集経|大集]][[華厳経|華厳]][[涅槃経|涅槃]]の五大部としたうえで、大蔵経に編入すべき仏典の総数を1076部'''5048巻'''と決定した。ここに収載された5048巻の経律論は、[[北宋]]以後の印刷大蔵経(一切経)の基準となった。
 
=== 大蔵経 ===
 
=== 日本 ===
日本では、[[日本書紀]]で白雉2年(651年)の記述に「一切経」が初めて現れるが事実とは考えられていない。その後も「一切経」はしばしば現れ、経典の収集、写経、読誦をしめす<ref name="sueki">{{Cite |和書 |author = 末木文美士 |title = 日本仏教入門 |date = 2014-03-21 |publisher = KADOKAWA/角川学芸出版 |isbn = 4047035378 }}</ref>。
とくに、[[天平]]7年([[735年]])[[玄ボウ|玄&#x6609;]]が請来(将来)した五千余巻は、当時の欽定大蔵経と推定される。底本とされ大規模な写経がおこなわれた。
寛和2年(986年)に[[ちょう然|奝然]]は大蔵経(開宝蔵)を輸入し、確実な大蔵経の請来として最も古い記録となる。奝然死後に[[藤原道長]]に渡り[[法成寺]]経堂に収められた(1021年)が火災で焼失したとみられる<ref name="sueki"/>。平安時代末から鎌倉時代にかけては、[[栄西]]、[[俊乗坊重源|重源]]、[[慶政]]その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。室町時代には室町幕府や九州探題、[[大内氏]]の名義で朝鮮に大蔵経を求め、日本に送られた大蔵経は寺院に寄進された(ただし、朝鮮から請来(将来)された大蔵経は高麗版に限らず、宋版・元版が送られた例がある。また、寺院の要請を受けて名義を貸す形で大蔵経を求める使者を出した例もある)<ref name=suda>須田牧子「大蔵経輸入とその影響」『中世日朝関係と大内氏』(東京大学出版会、2011年) ISBN 978-4-13-026227-9 (原論文:2007年)</ref>。