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[[Image:Tsurugaoka Castle air.jpg|250px|thumb|鶴ヶ岡城の航空写真<br>(1976年撮影・{{国土航空写真}})]]
'''鶴ヶ岡城'''(つるがおかじょう)は、[[山形県]][[鶴岡市]][[馬場町 (鶴岡市)|馬場町]]にあった[[日本の城]]([[平城]])である。
 
== 概要 ==
城は鶴岡市街地のほぼ中心に位置する。[[江戸時代]]は[[庄内藩]]の藩庁であった。他の[[東北地方]]の城と同様に土塁を多用し、石垣は主要な部分にしか用いられていなかった。また、[[天守]]は構えられなかったが、本丸東北隅に2層2階の隅櫓と二の丸南西隅にも2層2階の隅櫓が建てられていた。
 
現在、[[本丸]]・二の丸跡周辺は[[鶴岡公園]]となっており、桜の名所として[[日本さくら名所100選]]に選ばれている。鶴岡公園には荘内神社、稲荷神社や大宝館(郷土人物資料館)がある。三の丸跡には[[致道博物館]]があって[[酒井氏|酒井家]]伝来の美術品などが展示されており、酒井家御用屋敷跡庭園が整備され国の[[名勝]]に指定されている。鶴岡公園南東には[[藩校]]「[[致道館]]」が残っており、東北地方に唯一現存する藩校として国の[[史跡]]に指定されている。周辺には市役所、文化会館、[[山形県立鶴岡南高等学校]]、[[山形県立鶴岡工業高等学校]]、[[東北公益文科大学]]、[[慶應義塾大学]]先端生命科学研究所、[[鶴岡アートフォーラム]](芸術展示施設)などが存在する。
 
== 歴史・沿革 ==
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===鶴ヶ岡城===
[[慶長]]5年([[1600(1600]])[[関ヶ原の戦い]]の後、上杉氏は西軍に加担した罪により会津120万石から米沢30万石に減封され、代わって庄内地方を支配したのは[[山形城]]を本城とする[[最上義光]]である。義光は24万石から57万石を領有する大[[大名]]となった。義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張した。慶長8年([[1603(1603]])各城の整備が整うと、[[酒田市|酒田浜]]に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を[[亀ヶ崎城]]と改称した。この時に、亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されたのである。また同時に尾浦城も大山城と改称された。最上氏は3代[[最上義俊|義俊]]の[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622(1622]])に、[[お家騒動]](最上騒動)があり、[[改易]]となった。
 
旧最上領は分割され、庄内地方には[[信濃国]][[松代城]]より[[譜代大名]]の[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、[[城下町]]の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代[[酒井忠義 (出羽国庄内藩主)|忠義]]の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。本丸内には御殿と北西隅の二重櫓が天守代用としてあり、他に単層2階の他門櫓が2基上がり本丸の城門は櫓門が上がっていた。二の丸東南隅に2重櫓、二の丸の城門も全て櫓門であった。[[宝永]]元年([[1704(1704]])には、鬼門である東北隅に稲荷神社が勧進され、毎年の初午祭礼の際には町人も城内に入って参詣することができた。
[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])9代[[酒井忠徳|忠徳]]は藩校「致道館」を設けた、文化13年([[1816年]])には、現在地である三の丸に移転された。[[文政]]7年([[1824年]])柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。
[[天保]]11年([[1840年]])[[江戸幕府|幕府]]より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国[[長岡城]]への移封を命じられた。しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり命令は取り下げられた。[[慶応]]4年([[1868年]])1月より始まった[[戊辰戦争]]では[[奥羽越列藩同盟]]にて[[会津藩]]と共に最強硬派として官軍と戦い、会津藩が降伏した後、[[明治]]と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。
 
[[天保文化 (元号)|文化]]112(1805年)、9代[[1840酒井忠徳|忠徳]]は藩校「致道館」を設けた。文化13(1816年)には現在地である三の丸に移転された。[[文政]]7年(1824年)、柿葺であった城内の建物は、全て瓦葺となった。[[天保]]11年(1840年)[[江戸幕府|幕府]]より三方所替の命が下り、酒井氏は越後国[[長岡城]]への移封を命じられた。しかし、幕府に対し領民の抵抗運動が起こり命令は取り下げられた。[[慶応]]4年([[1868(1868]])1月より始まった[[戊辰戦争]]では[[奥羽越列藩同盟]]にて[[会津藩]]と共に最強硬派として官軍と戦い、会津藩が降伏した後、[[明治]]と改元された9月25日まで徹底抗戦を行った。
明治4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により廃城となり、明治9年([[1876年]])には城内の建築物は全て破却され鶴岡公園となった。明治10年([[1877年]])本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられた。また、[[大正]]4年([[1915年]])には大宝館が建てられ、市立図書館として[[昭和]]60年([[1985年]])まで活用された。現在は鶴岡出身の著名人の資料館となっている。昭和25年([[1950年]])には致道博物館が三の丸跡に開設した。昭和26年([[1951年]])藩校致道館が国の史跡に指定された。三の丸跡に残る酒井家御用屋敷跡庭園は酒井氏庭園として昭和51年([[1976年]])に国の名勝に指定された。
 
明治4年([[1871(1871]])[[廃藩置県]]により廃城となり、明治9年([[1876(1876]])には城内の建築物は全て破却され鶴岡公園となった。明治10年([[1877(1877]])本丸跡に藩祖酒井忠勝を祀る荘内神社が設けられた。また、[[大正]]4年([[1915(1915]])には大宝館が建てられ、市立図書館として[[昭和]]60年([[1985(1985]])まで活用された。現在は鶴岡出身の著名人の資料館となっている。昭和25年([[1950(1950]])には致道博物館が三の丸跡に開設した。昭和26年([[1951(1951]])藩校致道館が国の史跡に指定された。三の丸跡に残る酒井家御用屋敷跡庭園は酒井氏庭園として昭和51年([[1976(1976]])に国の名勝に指定された。
[[2017年]](平成29年)4月6日、[[続日本100名城]](108番)に選定された。
 
[[2017年]](平成29年)4月6日、[[続日本100名城]](108番)に選定された。
 
== 参考文献 ==