「甲申政変」の版間の差分

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甲申政変の失敗によって竹添公使は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させるとともに、朝鮮政府と朝鮮駐留清国軍に対し「在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐」および「仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと」に対する抗議文を発した。
 
朝鮮側は日本公使がクーデタにおいて、金玉均らの行動に積極的に加担し、6大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。これに対して竹添公使は、朝鮮国王による「日使来衛」(「日本公使よ、護衛の為に来たれ」)の親筆書と玉璽の捺された詔書を示し、自身の行動は保護を求めた国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張し、これで押し通した<ref name="unno68">[[#海野|海野(1995)pp.68-71]]</ref><ref>国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より</ref>。のちに朝鮮側から、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであるから無効であるとの反論がなされたものの、璽印は真正なものであることが認められた<ref>国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録</ref>。政府の頭越しに無断で王宮に闕をったことは咎められるべきことであったが、これによって追及は後退した<ref group="注釈">全権大臣金弘集の全権委任状に、
{{quotation|
京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料
}}
という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5 </ref>。しかし、両者は互いに自身の正当性主張して譲らず、平行線をたどるばりだったので、問題の解決は全権大使として派遣された[[井上馨]]外務卿の手に委ねられた。
 
日本国内では、日本がクーデタに加担した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道されたため、対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成されつつあってい<ref name="sasaki224"/>井上外務卿は、日本政府から事件解決全権クーデタへの関与委任され否定し井上はうえで日朝両国関係速やか修復すること何よりも肝要であるとして、日朝双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」および「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案した<ref name="unno68"/><ref>『「甲申事変」報道に見る「大新聞」の朝鮮・清国政策』中司 廣志(日本法政学会 法政論叢37(1) pp.162-172 2000.11.15)</ref>。朝鮮側全権大臣[[金弘集 (政治家)|金弘集]]も、最終的にこれに同意し、[[1885年]](明治18年)[[1月9日]]、[[漢城条約]]が締結された<ref name="unno68"/>。交渉の席中、清国欽差大臣[[呉大澂]]が議論に割り込もうとする場面もあったが、両全権は日朝間の問題に第三国が容喙することを許容せず警戒し、陪席を拒否した<ref name="unno68"/>。撤兵問題に関しては、清国をまじえての交渉を避けて天津における日清の二国間交渉に場を移した<ref name="unno68"/>。
 
=== 天津条約 ===