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[[1880年代]]前半、朝鮮の国論は、清の[[冊封国]]としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派([[事大党]])と朝鮮の近代化を目指す[[開化派]]に分かれていた。後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派([[事大党]])に分かれていた<ref name="unno56">[[#海野|海野(1995)pp.56-61]]</ref>。親清開化派は、清国と朝鮮の宗属関係と列国の国際関係を対立的にとらえるのではなく、二者併存のもとで自身の近代化を進めようというもので、[[閔氏政権]]の立場はこれに近かった<ref name="unno56"/><ref name="o56">[[#呉|呉(2000)pp.56-66]]</ref>。一方の急進開化派は、朝鮮近代化のモデルとして[[明治維新]]後の日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国を目指そうという立場であり、[[金玉均]]や[[朴泳孝]]ら青年官僚がこれに属した<ref name="o56"/>。日本の政財界のなかにも、朝鮮の近代化は、明治政府の進める[[殖産興業]]政策によって生まれる近代産業の市場としての価値を高めるものとして期待された。
 
[[1882年]]7月の[[壬午軍乱]]の結果、閔氏政権は事大主義的な姿勢を強め、清国庇護のもとでの開化政策という路線が定まった<ref name="makihara278">[[#牧原|牧原(2008)pp.278-286]]</ref><ref group="注釈">壬午軍乱は1882年[[7月23日]]、[[興宣大院君]]らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および[[大日本帝国|日本]]に対する大規模な[[朝鮮人]][[兵士]]の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を拉致・連行したことで収束した。</ref>。その結果、今まで「[[衛正斥邪]]」を掲げる攘夷主義者と対峙してきた開化派は、清国重視のグループと日本との連携を強化しようとするグループとの分裂がいっそう明らかになった<ref name="makihara278"/>。[[1876年]]の[[日清修好条規]]の締結によって朝鮮を開国に踏み切らせた日本であったが、軍乱後に清国と朝鮮がむすんだ[[中朝商民水陸貿易章程]]によって修好条規の規定は空洞化され、朝鮮政府に対する影響力はその分減退した<ref name="o66">[[#呉|呉(2000)pp.66-78]]</ref>。[[金弘集 (政治家)|金宏集]](のちの金弘集)、[[金允植]]、[[魚允中]]らは清国主導の近代化を支持し、閔氏政権との連携を強めるようになった<ref name="o66"/>。
 
== 独立党の活動 ==
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# 政府六曹以外の冗漫な官庁に属するものは罷免し、大臣と参賛が話し合って啓発すること
という内容の14項目の政治綱領を作成して、6日、これを発表した<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/><ref name="o121"/>。さらに、[[宮内省]]を新設して、王室内の行事に透明性を持たせること
、国王は殿下ではなく皇帝陛下として独立国の君主として振る舞うこと、還穀を廃止すことなどが構想された<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/>。この政綱から、旧弊を一新する[[変法自強運動]]的性格を読み取ることができ、少数からなる政府に権限を集中させて[[租税]]・財政・軍事・[[警察]]などの諸点において近代的改革を実施する一方、従来の宗属関係を廃棄して独立国家としての実をあげようとするものであった<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/><ref name="o121"/><ref name="kang233">[[#姜|姜(2006)pp.233-236]]</ref>。
 
== 三日天下 ==
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== 事後処理 ==
{{See also|漢城条約|天津条約 (1885年4月)}}
甲申政変後、日本政府は朝鮮政府とのあいだに[[漢城条約]]を、清国とのあいだに[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]を締結した。クーデタの挫折によって、日本の朝鮮における立場は以前よりむしろいっそう悪化した。
 
=== 漢城条約 ===
[[画像ファイル:KaoruM13.jpg|thumb|right|150px|井上馨]]
[[ファイル:KimHongJip.jpg|thumb|right|150px|金弘集]]
甲申政変の失敗によって竹添公使は、在留邦人と公使館員を仁川の日本人居留地にまで退避させるとともに、朝鮮政府と朝鮮駐留清国軍に対し「在漢城日本居留民への朝鮮民衆と清国軍の暴虐」および「仁川へと退避しようとしていた公使一行が朝鮮人と清国人に攻撃を受けたこと」に対する抗議文を発した。
 
朝鮮側は日本公使がクーデタにおいて、金玉均らの行動に積極的に加担し、6大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達なく兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。これに対して竹添公使は、朝鮮国王による「日使来衛」(「日本公使よ、護衛の為に来たれ」)の親筆書と[[玉璽]]された[[詔書]]を示し、自身の行動は保護を求めた国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張した<ref name="unno68">[[#海野|海野(1995)pp.68-71]]</ref><ref>国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮暴動事件 一/1 〔明治17年12月12日から明治17年12月19日〕」レファレンスコード(B03030193500)朝鮮当局と竹添公使の間で交わされた書簡問答より</ref>。のちに朝鮮側から、日本側が正当性の裏づけとして示した親筆書は独立党一派が偽作したものであるからり、無効であるとの反論がなされたものの、璽印は真正なものであることが認められた<ref>国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/4 〔明治17年12月26日から明治17年12月31日〕」レファレンスコード(B03030194700)p.19- 竹添公使と督弁交渉通商事務趙秉鎬の会談記録</ref>。政府の頭越しに無断で王宮に入ったことは咎めら批判されるべきことであったが、これによって追及は後退した<ref group="注釈">全権大臣金弘集の全権委任状に、
{{quotation|
京城不幸有逆党之乱、以致日本公使誤聴其謀、進退失拠、館焚民戕、事起倉猝均非逆料
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という一文がみえる。国立公文書館アジア歴史資料センター「朝鮮事変/5 〔明治18年1月4日から明治18年1月31日〕」レファレンスコード(B03030194800)p.5 </ref>。両者は互いに自身の正当性を主張して譲らず、平行線をたどるばかりだったので、問題の解決は全権大使として派遣された[[井上馨]]外務卿の手に委ねられた。
 
日本国内では、公使や日本がクーデタに加担関与した事実は伏せられ、清国軍の襲撃と居留民が惨殺されたことのみが大きく報道されたためこともあって、対朝・対清主戦論的な国民世論が醸成されていた<ref name="makihara278"/><ref name="sasaki224"/>。井上外務卿は、[[自由党 (日本政府のクーデタへ 1881-1884)|自由党]]与を否定したうえで、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし紙『[[自由新聞]]』は、「朝鮮国内で日本人害されたこと」および「日本帝国を代表せる公使館を焚き、残酷にも我焼失同胞なる居留民を虐殺」した清を許すことはできず、中国全土を武力で「蹂躙すべしいう明白な事実論陣対象張り、[[福澤諭吉]]の『[[時事新報]]』も「北京交渉を妥結進軍るこべし」を提案主張した<ref name="unno68makihara278"/><ref>『「甲申事変」報道に見る「大新聞」の朝鮮・清国政策』中司 廣志(日本法政学会 法政論叢37(1) pp.162-172 2000.11.15)<name="sasaki224"/ref>。朝鮮側全権大臣[[金弘集 (政治家)横浜毎日新聞|金弘集]]も、最終的にこれに同意し、[[1885年]](明治18年)[[1月9東京横浜毎新聞]]』や『[[漢城条約報知新聞|郵便報知新聞]]が締結され』もまた清国の非を報道した<ref name="unno68sasaki224"/>。交渉自由党席中、清国欽差大臣本拠地[[呉大澂高知県]]では[[片岡健吉]]が[[義勇兵]]団を組織し、日本各地で抗論に割り込もうとする場面もあった集会や追悼集会開かれ両全権は[[大朝間の問題本帝国陸軍|日本陸軍]]主流や[[薩摩藩|薩摩閥]]も派兵第三国が容喙することを警戒し、陪席を拒否し向けて動いた<ref name="unno68makihara278"/>。撤兵問題に関しては、清国をまじえての交渉を避けて天津における日清の二国間交渉に場を移した<ref name="unno68sasaki224"/>。
 
しかし、当時の日本の軍事力・経済力では、清国との全面対決は回避すべき無理難題であることは、政府部内において一致する共通認識であった<ref name="sasaki224"/>。1884年の暮れに2大隊の陸軍兵を護衛につけて漢城(ソウル)入りした井上外務卿は、日本政府のクーデタへの関与を否定したうえで、日朝両国関係の速やかな修復が何よりも肝要であるとして、双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、「朝鮮国内で日本人が害されたこと」および「日本公使館が焼失したこと」という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案した<ref name="sasaki224"/><ref name="unno68"/><ref>『「甲申事変」報道に見る「大新聞」の朝鮮・清国政策』中司 廣志(日本法政学会 法政論叢37(1) pp.162-172 2000.11.15)</ref>。交渉に参加したのは、日本側が井上全権大使、随員の[[井上毅]]参事院議官、朝鮮側が左議政(副首相相当)全権大臣[[金弘集 (政治家)|金弘集]]、督弁統理交渉通商事務衙門[[趙秉鎬]]、同協弁メレンドルフらであった<ref name="unno68"/>。金弘集全権は最終的に井上の提案に同意し、[[1885年]](明治18年)[[1月9日]]、朝鮮国王の謝罪、日本人死傷者への補償金、日本公使館再建費用の負担などを定めた[[漢城条約]]が締結された<ref name="sasaki224"/><ref name="unno68"/>。交渉の席中、清国より派遣されて[[1月1日]]に漢城入りした北洋副大臣の[[呉大澂]]は朝鮮の宗主国として日朝交渉を監視し、干渉しようとする場面もあったが、井上・金の両全権は日朝間の問題に清国が容喙することを拒んだ<ref name="unno68"/>。撤兵問題に関して井上全権は、日清の二国間交渉に場を移すこととした<ref name="unno68"/><ref group="注釈">井上馨外務卿には、実は対清交渉用の全権もあたえられていた。太政大臣[[三条実美]]によって日清両国軍の朝鮮撤兵交渉を指示する訓告があたえられていたのである。[[#海野|海野(1995)p.69]]</ref>。
 
=== 天津条約 ===
[[ファイル:Ito Hirobumi.jpg|thumb|right|150px|伊藤博文]]
[[ファイル:LiHungChang.jpg|thumb|right|150px|李鴻章]]
甲申政変は日清関係にも重大な緊張状態をもたらしたため、両国は善後策を協議した。課題はなおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍の撤兵問題と、政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたとされる日本商民殺傷事件に関する責任の追及であった<ref name="sasaki224"/>。日本側は交渉の全権を政府最高の実力者である[[伊藤博文]]に委ねて[[北京]]へと派遣した<ref name="sasaki224"/>。清国側は交渉の席を[[天津]]に設けて、全権を[[北洋通商大臣]]の[[李鴻章]]に委ねた<ref name="unno68"/>。
 
日本側は、朝鮮国王の要請によって王宮内に詰めていた[[竹添進一郎]]公使と日本公使館護衛隊が[[袁世凱]]率いる清国漢城駐留軍の攻撃に晒されたことはまったくの遺憾であると主張し、政変の混乱が広がる漢城市街で清国軍人によって在留日本人が多数殺害・略奪されたと厳しく非難した<ref name="unno68"/>。そして、そのうえで朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めた。対して清国側は、朝鮮王宮における戦闘は日本側が戦端を開いたと反論した<ref name="unno68"/>。そして、甲申政変を引き起こした朝鮮[[開化派]]勢力に協力した疑いがあり、軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難し、漢城における日本商民殺傷事件も政変によって暴徒と化した朝鮮の軍民によって引き起こされたものであるとして清国軍の関与を否定した<ref name="unno68"/>。
 
撤兵問題に関しては日清両軍の朝鮮半島からの退去が早々に合意を見たものの、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関しては両国の主張は食い違った。伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清共に出兵するべきではないと主張したのに対し李は朝鮮が軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論、壬午軍乱・甲申政変のような内乱であっても出兵はありえると主張した。結局、出兵に関する相互通知のみを取り決め、伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられた。日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も清国側は決して認めず、瑣末事であるとして取り合おうともしなかったが、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再調査を行い事実であれば将官等を処罰するとの照会文を取り交わした。
 
こうして[[1885年]]([[明治]]18年)[[4月18日]]、両全権の合意の下で[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が締結された<ref name="makihara278"/><ref name="kang233"/>。条約内容は以下の通り。
 
# 日清両国は[[朝鮮]]から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
# 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
# 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知[[(「行文知照]]」)を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
 
清国が譲歩した背景には、フランスとの戦闘行為がなおも続いていたことや、日本をフランスに接近させたくない[[イギリス]]側からの働きかけがあった<ref name="makihara278"/>。
 
== 影響 ==
{{See also|脱亜論}}
[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|150px|朴泳孝・金玉均ら開化派を全面支援した[[福澤諭吉]]。甲申政変が三日天下に終わると福澤が主宰する『[[時事新報]]』は社説「[[脱亜論]]」を掲載した。]]
[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]の結果、日清両国は[[軍事顧問]]の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めたが、朝鮮において親日派による日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想は完全に破綻し、やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想に転換した。10年後、天津条約の事前通告の規定に基づいて日清両国が朝鮮に派兵することで始まった[[日清戦争]]はその現れである
 
天津条約によって、1885年から1894年の日清戦争までの10年間、朝鮮に駐留する日清軍はなかった<ref name="kang233"/>。しかし、甲申政変を武力でつぶした袁世凱は総理交渉通商事宣として漢城にいすわり、朝鮮の内政や外交に宗主権をかかげて介入した<ref name="kang233"/>。
 
10年後、天津条約の事前通告の規定に基づいて日清両国が朝鮮に派兵することで始まった[[日清戦争]]はその現れである。
 
この政変によって日本人の中国を見る目はおおきく変化した<ref name="sasaki224"/>。『東京横浜毎日』や『郵便報知』などの自由民権派の新聞も中国の非を鳴らし、なかには清国討つべしというものもあった<ref name="sasaki224"/>。