「甲申政変」の版間の差分

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[[ファイル:Paul Georg von Möllendorff (1847-1901).jpg|thumb|right|140px|朝鮮の外交顧問となったメレンドルフ]]
一方、軍乱後に王宮にもどった[[閔妃]]はひとりの[[巫女]]を賓客として遇し、厚く崇敬して毎日2回の[[祭祀]]を欠かさなかった。閔氏一族や政府高官も加わった祭祀は、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった<ref name="o66"/>。また、朝鮮全土の宗教者も王宮に集まってこれを占拠するような状態となり、[[売官]]が再流行して朝鮮半島の政治はいっそう混迷の度を深めた<ref name="o66"/>。壬午軍乱後、[[李鴻章]]によって朝鮮政府の外交顧問に推薦され、その任についたドイツ人[[パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ]]は、[[釜山]]、[[元山]]、[[仁川]]の3港に設けた税関を管掌していたが、閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出した<ref name="unno56"/><ref name="o66"/>。さらに1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という[[悪貨]]の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城、[[江華島]]、[[平壌]]で大量に鋳造されたが、金玉均ら独立党は、[[インフレーション]]をまねき、人民の経済生活に大混乱を生じかねない当五銭に強い危機感をいだいて猛烈と反対し、その代案として日本などからの借款の獲得をめざした<ref name="o66"/><ref name="kasuya232">[[#糟谷|糟谷(2000)pp.232-235]]</ref><ref name="mizuno162">[[#水野|水野(2007)pp.162-166]]</ref>。[[勢道政治]]を進める閔氏やメレンドルフからすれば、あくまでも正論を唱える金玉均は邪魔者でしかなかった<ref name="mizuno162"/>。
 
== クーデター計画 ==
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[[ファイル:Ito Hirobumi.jpg|thumb|right|150px|伊藤博文]]
[[ファイル:LiHungChang.jpg|thumb|right|150px|李鴻章]]
甲申政変は日清関係にも重大な緊張状態をもたらした<ref name="makihara278"/><ref name="sasaki224"/>。課題はなおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍の撤兵問題と、政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたとされる日本商民殺傷事件に関する責任の追及であった<ref name="sasaki224"/><ref name="unno68"/>。日本側は交渉の特命全権大使参議宮内公卿の職にあり、政府最高の実力者である[[伊藤博文]]に委ねて[[北京]]に派遣した<ref name="sasaki224"/>。伊藤には参議・農商務卿の[[西郷従道]]が同行し、随員井上毅、[[伊東巳代治]]、[[牧野伸顕]]ら12名、随行武官10名を率いた大型使節団となった<ref name="unno68"/>。清国側は交渉の席を[[天津]]に設けて、全権を[[北洋通商大臣]]の[[李鴻章]]に委ねた<ref name="unno68"/>。
 
日本側は、朝鮮国王の要請によって王宮内に詰めていた[[竹添進一郎]]公使と日本公使館護衛隊が[[袁世凱]]率いる清国漢城駐留軍の攻撃に晒されたことはまったくの遺憾であると主張し、政変の混乱が広がる漢城市街で清国軍人によって在留日本人が多数殺害・略奪されたと厳しく非難した<ref name="unno68"/>。そして、そのうえで朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めた。対して清国側は、朝鮮王宮における戦闘は日本側が戦端を開いたと反論した<ref name="unno68"/>。そして、甲申政変を引き起こした朝鮮[[開化派]]勢力に協力した疑いがあり、軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難し、漢城における日本商民殺傷事件も政変によって暴徒と化した朝鮮の軍民によって引き起こされたものであるとして清国軍の関与を否定した<ref name="unno68"/>。
 
撤兵問題に関しては、共同撤兵といえば相互対等に聞こえるものの、日本側が公使館警備に限定された一個中隊の暫定的駐屯であるのに対し、清国側は現に漢城を制圧している大軍の駐兵既得権であったことから、事実上の清国の駐兵権の放棄を求めたのに等しかった。これについて、駐清公使の榎本武揚は、将来、緊急時の出兵権を担保するならば最終的に合意が得られるだろうと予想した。事実、日清両軍の朝鮮半島からの退去は早々に合意を見たものの、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関しては両国の主張が食い違い、難航した<ref name="unno68"/>。事実、伊藤と李鴻章のあいだの交渉は6回におよんだのであった<ref name="unno68"/>。
撤兵問題に関しては日清両軍の朝鮮半島からの退去が早々に合意を見たものの、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関しては両国の主張は食い違った。伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清共に出兵するべきではないと主張したのに対し、李は朝鮮が軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論、壬午軍乱・甲申政変のような内乱であっても出兵はありえると主張した。結局、出兵に関する相互通知のみを取り決め、伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられた。日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も清国側は決して認めず、瑣末事であるとして取り合おうともしなかったが、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再調査を行い事実であれば将官等を処罰するとの照会文を取り交わした。
 
撤兵問題に関しては日清両軍の朝鮮半島からの退去が早々に合意を見たものの、以後の朝鮮半島への両国の軍隊派遣に関しては両国の主張は食い違った。伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清共に出兵するべきではないと主張したのに対し、李は朝鮮が軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論、壬午軍乱・甲申政変のような内乱であっても出兵はありえると主張した<ref name="unno68"/>。結局、出兵に関する相互通知のみを取り決め、伊藤の主張する両国の永久撤兵案は退けられた。日本商民殺傷事件に関する清国軍の関与も清国側は決して認めず、瑣末事であるとして取り合おうともしなかったが、伊藤の執拗な追及に折れて、清国軍内部で再調査を行い事実であれば将官等を処罰するとの照会文を取り交わした<ref name="unno68"/>。伊藤はかろうじて面目を保ったことになる<ref name="unno68"/>
 
こうして[[1885年]]([[明治]]18年)[[4月18日]]、両全権の合意の下で[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]が締結された<ref name="makihara278"/><ref name="kang233"/>。条約内容は以下の通り。