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1933年の[[ナチ党の権力掌握]]後、[[ヘルマン・ゲーリング]]の世話で{{仮リンク|ヘッセン=ナッサウ州|en|Hesse-Nassau}}の{{仮リンク|オーバータウヌス郡|de|Obertaunuskreis}}の郡長に任命された(ヘッセン=ナッサウ州では兄フィリップが州知事を務めていた)。その後4月1日に[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]に入党。同時に[[突撃隊]]の隊員となり、[[親衛隊中尉|突撃隊中尉]]にまで昇進した。また[[ドイツ国防軍]]にも入隊し、陸軍少佐にまで昇進している。[[第二次世界大戦]]ではドイツ軍の一員として3年間フィンランド領[[ラッピ州|ラップランド]]に駐屯し、1943年にはフィンランドの最高司令官[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム|マンネルヘイム]]元帥より三級{{仮リンク|自由十字勲章|en|Order of the Cross of Liberty}}を授与されている。1944年1月29日、妻マリー・アレクサンドラが{{仮リンク|フランクフルト大空襲|en|Bombing of Frankfurt am Main in World War II}}の犠牲となって死亡した。
 
戦後、ナチ党への協力姿勢が災いして短期間抑留されている。1948年9月7日、家内法では[[貴賤結婚]]とされる平民女性のオッティーリエ・メーラー(1903年 - 1991年)と再婚した。その後は{{仮リンク|[[クロンベルク・イム・タウヌス|label=クロンベルク|en|Kronberg im Taunus}}]]の{{仮リンク|フリードリヒスホーフ城|en|Schlosshotel Kronberg}}で暮らし、{{仮リンク|ヘッセン家の資産管理団体|de|Hessische Hausstiftung}}を経営した。
 
== 参考文献 ==