「ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世」の版間の差分

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==略歴==
父[[ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世]]に音楽を学ぶ。11歳であった1867年2月15日には、{{仮リンク|ウィーン男声合唱協会|de|Wiener Schubertbund}}のリーダーターフェルに出演し、『[[美しく青きドナウ]]』初演の合唱に加わった{{sfn|若宮|2013|p=170}}。父は兵役免除を皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]に嘆願したが、皇太子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ]]でさえ兵役についたという理由で却下され、1875年から3年間にわたり「[[ドイツ騎士団]]」の軍楽隊で打楽器奏者を務めた{{sfn|若宮|2013|p=170}}。
 
1875年[[ヘルメスベルガー弦楽四重奏団]]団員、1878年ウィーン音楽院作曲教授{{sfn|若宮|2013|p=170}}、1884年[[ウィーン宮廷歌劇場]]バレエ音楽監督{{sfn|若宮|2013|p=170}}、1890年[[ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団]][[コンサートマスター]]を経て、1901年より2年間、[[グスタフ・マーラー]]の後任としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。順風満帆な音楽家人生だったが、1907年に女性スキャンダルによりウィーン中のあらゆる役職を降板し、そのまま健康を害して死去。
 
[[ジョルジュ・エネスコ]]、[[フリッツ・クライスラー]]らを指導したことでも知られる。なお、ヘルメスベルガーの手になる小品は、1997年にはニューイヤーコンサートのレパートリーを拡大し、ウィーンの音楽家を世界に紹介することを目的として彼の作品が初めてニューイヤーコンサートで演奏された。その後、ウィーンフィル・[[ニューイヤーコンサート]]では、しばしば彼の質の高い作品が取り上げられている。また、それらはシュトラウス音楽の描くウイーン音楽の世界とは異質の、独自の個性的な芸術境地を切り開くことに作曲および演奏効果上、成功してもいる。特に、彼の手になる管弦楽作品では[[リヒャルト・ワーグナー|ヴァーグナー]][[フランツ・リスト|リスト]]の影響が如実に表れており、世紀末ウイーンの官能的な音の世界に覆われているのが伺える充実した音楽内容を誇っている。
 
== 作品 ==