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'''ロウレンソ・デ・アルメイダ'''(Lourenço de Almeida、
[[1505年]]にフランシスコがインドに赴任した後、ロウレンソは艦隊の指揮官として軍事活動に従事する。フランシスコの命令を受けて通商協定を締結するために[[モルディブ諸島]]の探索を行い、ポルトガルの影響力の拡大に成功する<ref name="bri">{{Britannica|16790}}</ref>。モルディブへの航海の後、ポルトガル人として初めて[[セイロン島]]に渡り、居留地を設置した<ref name="bri"/>。
[[1506年]]に[[エジプト]]の[[マムルーク朝]]と同盟を結んだ[[コーリコード|カリカット]]の{{仮リンク|ザモリン|en|Zamorin of Calicut}}が[[コーチ (インド)|コーチン]]のポルトガルの拠点を攻撃するが、ロウレンソはカリカットの艦隊に勝利を収めた。戦勝の後、ロウレンソは包囲を受けていた{{仮リンク|アンジェディヴァ島|en|Anjediva Island}}の救援に向かうが、兵力が不足していたためにアンジェディヴァ島を放棄し、軍事活動の拠点をコーチンと[[カンヌール|カナノール]]に移した<ref name="ikuta">生田「大航海時代の東アジア」『西欧文明と東アジア』、88-90頁</ref>。
[[1507年]]にロウレンソは{{仮リンク|チャウル|en|Chaul}}、ダブルの港を攻撃するが、誤ってカナノールの商人ママル・メルカルの甥の船を破壊したため、カナノールの王はカリカットと同盟してポルトガルに敵対する<ref name="ikuta"/>。カナノールの攻撃を受けたポルトガル艦隊は劣勢に立たされるが、同年8月27日に[[トリスタン・ダ・クーニャ (探検家)|トリスタン・ダ・クーニャ]]の艦隊が到着し、危機を乗り越えた<ref name="ikuta"/>。
インド洋世界で勢力を拡大するポルトガルに対し、マムルーク朝は[[グジャラート・スルターン朝|グジャラート王国]]と連合してポルトガルを攻撃する計画を立て、フランシスコはロウレンソにグジャラートの攻撃を命じ、8隻の艦船を委ねた<ref name="ikuta"/>。ロウレンソの艦隊とグジャラートの艦隊はディウの港外で3日にわたって交戦するが、兵力の少ないポルトガル軍は敗北を喫する({{仮リンク|チャウルの戦い|en|Battle of Chaul}})<ref name="ikuta"/>。ロウレンソは腿を負傷しながらもマストに体を縛り付けて指揮を執り続けたが、背中に弾丸を受けて絶命した<ref name="ikuta"/>。ディウの太守マリーク・アヤースはロウレンソの遺体を丁重に葬り、フランシスコに悔やみの手紙を送った<ref name="ikuta"/>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* 生田滋「大航海時代の東アジア」『西欧文明と東アジア』収録(榎一雄編, 東西文明の交流5, 平凡社, 1971年7月)
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[[Category:ポルトガルの軍人]]
[[Category:大航海時代]]
[[Category:1508年没]]
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