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== クーデター計画 ==
[[1883年]]6月、金玉均は自身にとって3回目の日本訪問の途についた。前回の訪日で会見した日本政府の高官は、朝鮮国王の[[委任状]]があれば借款に応ずることを示唆しており、朝鮮からの留学生[[尹致昊]]の帰国に際しても大蔵大輔の[[吉田清成]]はかさねてそのことを金玉均に伝言していた<ref name="unno61"/><ref group="注釈">尹致昊は[[1881年]]に[[紳士遊覧団]]だっとして派遣された魚允中の随行員として日本に渡り、朝鮮初の日本留学生の一人となった人物。外務卿井上馨の斡旋で[[中村正直]]の[[同人社]]に学んだ。</ref>。
 
しかし、高宗からあたえられた300万円の国債借り入れの委任状を持参して来日した金玉均に対する日本政府の対応は冷たかった<ref name="unno61"/>。300万円は当時の朝鮮における国家財政1年分に相当しており、日本の予算約5,000万円からしても巨額なものであった<ref name="unno61"/><ref name="o89"/>。メレンドルフの妨害工作もあったが、日本政府としても大蔵卿[[松方正義]]が[[緊縮財政]]を進めているなか、財政力に乏しく政情も不安定な朝鮮に対し、そのような巨額な投資をおこなうべき理由は乏しかった<ref name="unno61"/><ref name="mizuno162"/>。金玉均は、日本についで、[[フランス]]や[[アメリカ合衆国]]からの借款工作にも失敗した<ref name="unno61"/>。
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こうしたなか、計画は予定通り実行に移された<ref name="unno61"/>。襲撃用の武器は[[福澤諭吉]]の弟子で『[[漢城旬報]]』の刊行者であった[[井上角五郎]]が輸入したものだといわれている<ref name="unno61"/>。郵征局の祝宴には、朝鮮政府要人や英・米・独・清など各国代表のほか、独立党からは[[洪英植]]、[[朴泳孝]]、[[金玉均]]、[[徐光範]]、[[尹致昊]]が参加した<ref name="o121"/><ref name="mizuno162"/>。ホスト役を洪英植が務め、アメリカ公使フートの[[通訳]]として参加した尹致昊には計画の内容は知らされていなかった<ref name="o121"/>。総勢18名で[[竹添進一郎]]公使は会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館で待機していた<ref name="o121"/>。祝宴には島村書記官が竹添公使の代理として参加した<ref name="o121"/>。
 
12月4日夜8時すぎ、李圭完と尹景寿によって別宮に火がかけられたが警護兵に消し止められたため、付近の[[民家]]に放火した<ref name="o121"/><ref name="mizuno162"/>。金玉均・朴泳孝・徐光範の3名は王宮に急行し、[[宦官]]の[[柳在賢]]に対し、寝室にあった国王への取り次ぎを頼んだ<ref name="o121"/>。しかし、柳は何事があったのか質問する一点張りでいっこうに動こうとしないので金玉均が大声をあげ、その物音に高宗が気づいたので金らに声をかけた<ref name="o121"/>。かれらは国王夫妻を正殿から[[景祐宮]]に移し、清国軍の反乱と偽って日本公使に救援を依頼するよう高宗に要請した<ref name="o121"/>。あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに景祐宮の守りについた<ref name="unno61"/><ref name="o121"/>。当時の朝鮮政府では、変事には閣僚が王宮にかけつけることになっていたので高官たちがつぎつぎに王宮に向かった<ref name="o121"/>。この日の夜から翌日未明にかけて、[[閔泳穆]](外衛門督弁)、[[閔台鎬]](統理衙門督弁)、[[趙寧夏]](吏曹判書)の守旧派(事大党)の重臣3名が殺害され、王宮に入っていた尹泰駿(後営使)、韓圭稷(前営使)、李祖淵(左営使)は門外へ連れ出されて殺害された<ref name="unno61"/><ref name="o121"/><ref name="mizuno162"/><ref name="sasaki224">[[#佐々木|佐々木(1992)pp.224-229]]</ref>。宦官の柳在賢は、[[閔妃]]の命を受けて高宗に「日本人による変事」であることを伝えたため、国王夫妻の面前で処断された<ref name="o121"/>。閔妃の一族で右営使だった[[閔泳翊]]は、であった洪英植がひそかに護衛をつけてかくまったので無事であった<ref name="o121"/><ref group="注釈">閔泳翊と洪英植は、[[1883年]]7月以降、高宗の派遣した渡米使節団のそれぞれ正使と副使を務めた(徐光範は参事官、随員は[[兪吉濬]]ら5名であった)。[[9月18日]]に[[アメリカ合衆国大統領]][[チェスター・A・アーサー]]に謁見したのち閔と洪は別行動をとり、洪英植一行は[[太平洋]]航路で10月に帰国、閔泳翊一行は[[大西洋]]・[[インド洋]]航路で12月に帰国した。思想史家の[[姜在彦]]は、この別行動を閔と洪のアメリカ視察中の意見の相違が理由ではないかと推測している。そしてもし、閔妃の甥にあたる閔泳翊が洪英植や徐光範が期待するように独立開化派の考えに共鳴し、その後援者となったならば、平和的な「上からの改革」が可能であり、甲申政変のようなクーデタを必要としなかったかもしれないと論じている。[[#姜|姜(2006)p.238]]</ref>。
 
翌5日、首相にあたる領議政に[[興宣大院君]]の従弟の[[李載元]]、左議政(副首相)に洪英植が就き、[[朴泳孝]]が前後営使兼左補将、[[徐光範]]が左右営使兼代理外務督弁右補将として[[外交]]・[[軍事]]・[[司法]]の要職に、また、金玉均は戸曹参判として[[財政]]担当として参加する新政権の成立を宣言した<ref name="unno61"/><ref name="o121"/><ref name="sasaki224"/>。この日の夕方、高宗は[[昌徳宮]]に遷宮した<ref name="unno61"/><ref name="o121"/>。独立党の人士からは他に、尹致昊の父[[尹雄烈]]、朴泳孝の兄[[朴泳教]]、[[徐載弼]]、[[申箕善]]、開化派官僚からは[[金允植]]、[[金弘集 (政治家)|金弘集]]、さらに、[[天津]]に幽閉されていた興宣大院君の縁者を中心とする王家親族が名簿に名をつらねた<ref name="o121"/>。ただし、これは必ずしもすべてが本人の承諾を得たものではなかった<ref name="o121"/>。
 
金玉均『[[甲申日録]]』によれば、新政府の閣僚は夜を徹して話し合い、国王の稟議を経て、
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# [[大臣]]・参賛は定期的に議政所において会議を開き、[[政令]]を議定して執行すること
# 政府六曹以外の冗漫な官庁に属するものは罷免し、大臣と参賛が話し合って啓発すること
という内容の政治綱領(「革新政綱」)を作成して、6日、これを発表した<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/><ref name="o121"/>。さらに、[[宮内省]]を新設して、王室内の行事に透明性を持たせること、国王は殿下ではなく皇帝陛下として独立国の君主として振る舞うこと、還穀を廃止すことなどが構想されたといわれる<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/>。なお、これは本来80項目から成っていたといわれるが、具体的な内容の知られるのは『甲申日録』の伝える14か条だけである<ref name="mizuno162"/>。いずれにせよ、この政綱から、旧弊を一新する[[変法自強運動]]的な性格を読み取ることができる<ref name="kang233">[[#姜|姜(2006)pp.233-236]]</ref>。すなわち、少数からなる政府に権限を集中させて[[租税]]・財政・軍事・[[警察]]などの諸点において近代的改革を実施する一方、従来の宗属関係を廃棄して独立国家としての実をあげようとするもしたのであった<ref name="unno61"/><ref name="kasuya232"/><ref name="o121"/><ref name="kang233"/>。
 
== 三日天下 ==
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# 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知(「行文知照」)を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
 
清国が譲歩した背景として、清仏戦争がまだ完全に終わっておらず、フランスとの戦闘行為がなおも続いていたことや、日本をフランス清交渉が長引くことよって日仏が接近させすることを警戒しくない[[イギリス]]側からの働きかけがあったとみられる<ref name="makihara278"/>。
 
== 影響 ==
=== 朝鮮 ===
{{See also|脱亜論}}
[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]の結果、日清両国は[[軍事顧問]]の派遣中止、軍隊駐留の禁止、やむを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めた。これによって、1885年から1894年の日清戦争までの10年間、朝鮮に駐留する外国軍隊はなかった<ref name="kang233"/><ref name="o144">[[#呉|呉(2000)pp.144-159]]</ref>。しかし、それによって朝鮮の自立が確保されたわけではなく、甲申政変を武力でつぶした[[袁世凱]]は総理交渉通商事宣として漢城にいすわり、朝鮮の内政・外交に宗主権をかかげて介入した<ref name="kang233"/><ref name="o144"/>。また、朝鮮から日清軍が撤退したことは、朝鮮半島進出をねらう[[ロシア帝国]]をおおいに喜ばせた<ref name="o144"/>。メレンドルフは、元来は清国政府の推挙によって朝鮮政府の外交顧問となった人物であるが、こののちロシアに接近し、漢城条約の規定によって謝罪使として日本を訪れた際、駐日ロシア公使館の書記官スペールと会談を重ね、朝鮮がロシアから軍事教官をまねくことに合意した<ref name="o144"/>。さらに、金玉均がウラジオストックに来た場合は身柄を朝鮮に引き渡す、第三国の朝鮮侵攻にはロシア軍が出動する、朝鮮海域はロシア軍艦が防衛するなどの密約を結んだ<ref name="o144"/>。これは、閔氏要人が閔妃にはたらきかけて黙認をあたえたものであったが、金允植や閔泳翊ら政府首脳は密約を否決し、メレンドルフは外務協弁を解任された<ref name="o144"/>。朝鮮の政権中枢においては、このように、ロシアに依存する「新たな事大主義」の芽がみられた<ref name="o144"/>。
[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|150px|朴泳孝・金玉均ら開化派を全面支援した[[福澤諭吉]]。甲申政変が三日天下に終わると福澤が主宰する『[[時事新報]]』は社説「[[脱亜論]]」を掲載した。]]
[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]の結果、日清両国は[[軍事顧問]]の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めたが、朝鮮において親日派による日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想は完全に破綻し、やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想に転換した。
 
こうしたなかで、甲申政変のクーデタに加わった人物は不遇をかこったが、[[日清戦争]]中の[[1894年]]12月に組織された第二次金弘集内閣では、日本に亡命していた朴泳孝、アメリカに亡命していた徐光範も入閣して連立政権をつくり、いわゆる「[[甲午改革]]」を主導した<ref name="kang247">[[#姜|姜(2006)pp.247-254]]</ref>。また、徐載弼や尹致昊は[[1896年]]4月に『[[独立新聞]]』を創立するなど、朝鮮における開化思想・民権思想の大衆化に努めた<ref name="kang247"/>。
天津条約によって、1885年から1894年の日清戦争までの10年間、朝鮮に駐留する日清軍はなかった<ref name="kang233"/>。しかし、甲申政変を武力でつぶした袁世凱は総理交渉通商事宣として漢城にいすわり、朝鮮の内政や外交に宗主権をかかげて介入した<ref name="kang233"/>。
 
=== 清国 ===
10年後、天津条約の事前通告の規定に基づいて日清両国が朝鮮に派兵することで始まった[[日清戦争]]はその現れである。
一方の清国では弱国日本と侮る風潮がはびこり、[[1886年]](明治19年)8月には[[長崎事件]]が起こった。
 
=== 日本 ===
{{See also|脱亜論}}
[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|150px|朴泳孝・金玉均ら開化派を全面支援した[[福澤諭吉]]。甲申政変が三日天下に終わると福澤が、みずから主宰する『[[時事新報]]』社説「[[脱亜論]]」を掲載した福澤諭吉]]
朝鮮において親日派による日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想は完全に破綻し、やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想に転換した。10年後、天津条約の事前通告の規定に基づいて日清両国が朝鮮に派兵することで始まった[[日清戦争]]はその現れである。
 
この政変によって日本人の中国を見る目はおおきく変化した<ref name="sasaki224"/>。『東京横浜毎日』や『郵便報知』などの自由民権派の新聞も中国の非を鳴らし、なかには清国討つべしというものもあった<ref name="sasaki224"/>。
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この政変は自由民権運動にも大きな影響をあたえ、1885年12月、自由党左派の大井憲太郎らが朝鮮にわたってクーデタを起こし、清国から独立させて朝鮮の改革を行おうとする[[大阪事件]]が起こった<ref name="sasaki224"/>。
 
一方の清国では弱国日本と侮る風潮がはびこり、[[1886年]](明治19年)8月には[[長崎事件]]が起こった。
 
この政変は[[日清戦争]]の遠因となり、天津条約はこれを回避することができず、むしろその規定が戦争へとつながった。日清戦後の[[下関条約]]の調印の場で伊藤博文と李鴻章は11年ぶりに再び顔を合わせることとなったが、この時、両者の立場は完全に入れ替わっていた。